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【第3回】北海道の縄文遺跡と交易の広がり

歴史ロマン
この記事は約15分で読めます。

第2回を書いていて、第3回では終わらないことが判明して焦っていたのだけれど、実は第3回を書き始めたら第4回で着地できるかどうか微妙になってきた。なお、水田稲作伝来ルートの話のハズなんだけど、今回も直接稲の話は出てこないんだ。申し訳ない。これ、どこかで話を縮めないと……。

世界文化遺産「大平山元遺跡」の展示施設 販売グッズ完成

03月14日 19時29分

世界遺産に登録された青森県外ヶ浜町の大平山元遺跡の展示施設が来月、オープンするのを前に、施設で販売されるグッズがこのほど完成しました。

NHKニュースより

まあ、記事が長くなった原因は大体コイツ(この記事)のせいである。

世界遺産に「北海道・北東北の縄文遺跡群」を登録したことや、文化財保護という意味で展示室を整備したりすることは歓迎している。……のだが、色々盛り沢山なんだよね、内容が。

  • 最古の縄文文化、大平山元遺跡
  • 土器と土偶の縄文文化
  • 船を使った交易

北海道・北東北の縄文遺跡群

大平山元遺跡とは

大体そんな気はしていたんだけれど、水田稲作伝来ルートの話を書いていた時に三内丸山遺跡に脱線したことが不味かった。でも、三内丸山遺跡の話を書いた以上は同じ青森県にある大平山元遺跡と、北海道の縄文遺跡の話に触れないわけにはいかない。「北海道・北東北の縄文遺跡群」として登録された仲間だし、最古の縄文文化の証拠だからね。そして、交易の話をするためにも必要なんだな。出来るだけ掻い摘んでいきたい。

で、先に北海道・東北の縄文遺跡群の話をしておくが、以下のような分布になっている。

縄文ジャパンのサイトより

サイトに飛んで頂ければ、詳しい解説がそれぞれ載っているので参考にして頂けると思う。

先ずは時代区分の話から。

北の縄文のサイトより

実にスバラシイ図が作られていて、参考になる。是非リンク先にとんで頂いてじっくり味わって頂きたい。

で、大平山元遺跡の話なのだが、I~IVまで複数の遺跡がある中で、最も古いのが大平山元I遺跡(紀元前14500~13500年頃)であり、日本最古の縄文遺跡だと認定されている。

土器が出土した

大平山元I遺跡が最初の縄文遺跡だという認定されたからには、当然ながら土器が出たからということになる。そうでなければ石器時代の遺跡となるからだ。

縄文ジャパンのサイトより

この、土器かどうか怪しいような破片ではあるが、煮炊きした後である焦げ目が付いていたことから土器であると認定されている。縄文時代区分ではあるが特に縄目などが見当たらなかったことから、無文土器片であるとされた。

外ヶ浜町のサイトより

柱穴や凹みは認められず地下への掘り込みも無いことなどから、簡素な住居を建てて移住する生活スタイルで、同時に出土した石器や地理的条件から鮭やマスなどを採取していたと推定されている。

土器が出土したことが一定期間定住した可能性を示唆しているわけなんだけど、比較的重くて脆い土器で模様なども付けられていなかった。

文化がスタート

「北海道・北東北の縄文遺跡群」の素晴らしいところは、この大平山元遺跡以降、登場する遺跡の年代毎に文化が広がっていく様子が推認されるからである。

これは上の図を拡大したモノで、北海道にある垣ノ島遺跡では竪穴式住居跡やお墓が確認されて、故人を埋葬する文化が生まれていることが推察される。そこから、更に時代が後になると居住に必要な貯蔵施設や捨て場が作られるようになり、更に後には三内丸山遺跡や大船遺跡のような祭祀場だと思われる設備が見受けられるようになった。

この頃には完全に北海道と青森は海で隔てられていて、おそらく海峡は冬季に凍ることで行き来が可能であったことが推察される。

大船遺跡(紀元前3500~2000年頃)には、クジラの骨が出土したことから、この時代に既にクジラを捕って食べていたことが分かる。しかし残念ながらここの遺跡では現段階で稲の存在は確認されていない。ヒエの出土は確認されているので少量の穀類は食していたようだが、どちらかというと栗やドングリなどが主流で、動物性タンパク質をより多くとっていたと見られる。

その後、更に定住の成熟が図られていくんだけど、残念なことに気温がどんどん下がっていったことで、暮らし方にも大きな変化があったようだ。

北海道は、この後、アイヌ人達の侵略を受け、融合し、本土とは異なる狩猟文化がそのまま継続するような時代が江戸時代前まで続くのだが、どうやら北海道の地は、度々、外国人の侵略を受けていることが分かっている。DNA鑑定によってオホーツク人はアムール川河口付近由来の民族であった可能性が高く、アイヌ人とも関連性が強いことが分かっているが、文化の隔たりもあって、直接の繋がりがあるかは不明である。

いずれにせよ、縄文時代のように青森や岩手などの東北地方の縄文文化との連続性は、北海道においては途切れてしまうということが分かる。それでも、交易は行っていたようではあるが。

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弥生文化と縄文文化は方向性の違い?

土器文化の連続性を感じない

さて、縄文時代の次に日本列島に訪れる弥生時代なのだが、長きにわたって続いた縄文時代に比べると弥生時代はかなり短く終わった。生活様式が随分様変わりしたから時代区分として縄文時代、弥生時代という区分を使っているんだけど、よく知られる各時期の長さはこんな感じ。

1万年以上も続いた縄文時代に比べ、弥生時代は1000年間ちょい。あ、最近の学説では、水田稲作が始まった紀元前1000年頃を弥生時代の始まりと定義する風潮があるので、実は各時期の長さの定義が変わってきているのだけれど、ややこしいので、このブログでは弥生時代の始まりは紀元前500年として扱う。できるだけ統一するつもりだけど、引用する資料によって揺れがあるのはご勘弁を。

で、縄文時代といえば土器や土偶なんだけど、子供の頃見た土器の印象としては縄文土器よりも弥生土器の方が劣ってるんじゃ?と感じたものである。

当時は、縄文土器は祭祀に使われていたとされていたけど、実際には食べ物の煮炊きにも使っていたことが分かっている。

日本遺産のサイトより

有名なのがこの火焔型土器なんだけど、最初に発見されたのは新潟県の信濃川流域である。馬高遺跡(紀元前3500~2400年頃)では、この特徴的な火焔型土器の他にも土偶が出土している。

東京国立博物館のサイトより

土偶と言えばコレ。青森県つがる市木造亀ヶ岡出土の遮光器土偶である。

実のところ、火焔型土器の使い道もイマイチ分かっていないし、土偶も使い道ははっきりとわかってはいない。土偶の使い道のウチ一番支持されている説は、祭祀に用いられた説で、体の一部がかけて出土することが多いことから、怪我の回復祈願などに使ったという説もある。何よりデザインが独特である。そしてこの時代のものとしては世界的にもあまり例がないようだ。世界で見られる人形の像の多くは新石器時代につくられた生産や豊穣を祈る地母神崇拝の像であるようだ。

つまり、世界で見られる土偶様の人形は農耕と密接に関わっていたのに対して、日本で見つかる土偶はその傾向と若干違うようだ。

日本は土偶先進国だった?!

そして、土偶は縄文時代初期から日本各地で作られている。日本全国の出土総数は15,000体以上にも登り、比較的出土分布は東日本に偏っており、西日本からの出土は稀。

なお、土偶は縄文初期には中実土偶といわれる中身の詰まった土偶だが、縄文中期には中空土偶が登場する。そして、中空土偶の登場に伴って自立型の土偶が登場するようになる。縄文後期になるとデザイン性が更に高くなり洗練されていく。

縄文後期:群馬県東吾妻町出土のハート形土偶
縄文後期:長野県辰野町出土の仮面土偶

様々な土偶が出土する上に美術的価値も高いので、外国でも好事家が集めていたりするほど世界的にも著名である。古代にも土偶の移動はあったようで、亀ヶ岡式文化(東北地方を中心とする縄文時代晩期の文化)の土偶が沖縄県の遺跡で発掘されている。このことは土偶が交易製品として用いられた可能性を示唆している。

縄文人たちには土器や土偶に美術性を求めるだけの「文化」があった。狩猟や採取が中心の生活だったので時間に余裕があったことと、食物が比較的豊富で生活が豊かだったことが関係していると言われているが、創作を楽しんだりする知恵もあったのだろう。

そして、ここまでブームになっていたと思われる土偶作りだが、なぜか弥生時代には東北地方を除いてほとんど作られなくなってしまう。

尤も、古墳時代になると埴輪という形で焼き物が登場するので、その技術が失われたというわけではないのだろうけれど。

海面上昇

話を少し戻すが、最初に紹介した北の縄文のサイトより引用した図、あれを引用した理由は一番下に温度変化の様子が示されていたからである。

学校でも、石器時代には地球は氷河期と呼ばれる寒い時代であり、この氷河期が終わることで定住して土器などを作り始めたというザックリした話を習ったと思う。

旧石器学会のサイトより

で、タイムスケールの向きが逆になっているのでちょっと見にくいのだけれど、この図は、氷河・氷床の量の増減を示していて、最終氷期の終わり、つまり後期旧石器時代の終わりになって、後氷期を迎えることで急激に氷河・氷床の量が減ったことを示している。つまり、縄文時代が始まった「ステージ1」の時期を迎えた時に大きな海面の変化があったことを意味する。

実際に、海洋調査によって今から15000万年前には海面が今よりも130m程度は低かっただろう事が分かった。これを、地質Naveのサイトの海面上昇シミュレーター機能を使うとこんな感じになる。

15000万年前の北海道周辺の海岸線の様子

なんと、北海道はサハリンから陸続きなのだ。北海道と青森との間には津軽海峡が存在するが、ここも渡れた場所があるか、もしくは凍結することで渡れた時期があったとされている。

日本最古の縄文遺跡である大平山元遺跡(紀元前13000年頃)が出来上がった頃、サハリンとの陸続きになっていて、移住してきた人々も居たのではないか?という話がある。これより後の時代には、温度上昇によって急激に海面が上がる(100m以上の海面上昇があった)ので日本列島は大陸から切り離されるんだよね。

縄文時代中期には、今より2~3m海面が高かったという風に言われている。地域によっては5m程度海面上昇した地域もあるようだ。貝塚の発見場所からもそのことが裏付けられている。縄文時代後期の紀元前2000年頃になると海面が次第に低下したようだけれども、

この海面の変化は縄文人の生活様式にも大きな影響をもたらしたと考えられている。

縄文人は船も使っていた

そう、縄文人たちは比較的海の近くに住んでいたことが分かっていて、交易、或いは漁には船が使われていた。後で触れるが、旧石器時代の始めから船の存在があることは示唆されていたので、縄文時代に使われていても不思議はないのだが、交易に用いられていた可能性があるというところがポイントである。交易の可能性については第2回にも詳しくやったけれども。

実際、後期旧石器時代ごろから沿岸や島沿いの渡海が行われていたと言われており、未整備の陸路よりも海路の方が積極的に利用されていたとする研究者もいる。

街道の整備には多くのマンパワーを必要とするので、縄文人たちがそれだけの時間とコストを掛けて街道整備していたとは考えられない。海上交通にはリスクもあるが理論的にも障害物の少ない海路のほうが便利であったと考えられる。

逆に、海上交通がメインだったからこそ、穏やかな時代が続いたのかもしれないけれどね。多数の人が移動するとどうしても軋轢が生じるから。

最古の丸木舟を発見 縄文人の計り知れない航海力

2015年2月23日 13:23

市川市西部を縦断する予定の東京外郭環状道路(外環道)。三郷南(埼玉県三郷市)―高谷(市川市)間の2017年度完成に向け建設中で、工事に伴う調査が千葉県によって進められた。

発見された舟はムクノキをくりぬいた丸木舟で全長約7.2メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチだった。船尾部分が破損しているが、船首部分は約40センチあることから少なくとも7.6メートル以上はある当時としては大型の舟だったようだ。

日本経済新聞より

使っていたのは丸太をくり抜いて作る形式の丸木舟だったようだ。

船の出土品

……素人には船に見えないのだけれども、この手の出土品はそれなりの数存在するらしい。

縄文時代の丸木舟は全国で約160艘(そう)発見されている。千葉県では全国最多の60艘が出土した。従来ほとんどが4000年~3000年前の縄文後期から晩期にかけての舟で、5500年以上さかのぼれるのは数例しかなかった。これまでの最古は島根大構内遺跡(松江市)の約7000年前だった。

日本経済新聞より

この時、千葉県で発見されたこの船は、漁業に用いられたと推測されている。が、船は交易にも用いられた可能性が高いようだ。

縄文時代には驚くほど広域で物流があったことはよく知られている。典型例が青森市の三内丸山遺跡(5500~4000年前)だ。出土した黒曜石、ヒスイ、琥珀(こはく)など北海道や東北をはじめ各地から集まった。蛍光X線分析装置など科学的分析で原産地の推定が行われている。

杉原重夫・元明治大教授は『三内丸山遺跡で出土した霧ケ峰産黒曜石製遺物』で、約600キロ離れた長野県の霧ケ峰産黒曜石について「日本海側を運ばれた可能性が高いと推定される。(新潟県)糸魚川産ヒスイと同じような流通経路」とし、日本海の海上ルートでの運搬を推定している。

日本経済新聞より

海運をする縄文人が居た可能性もあり、こうした海路による流通によって日本各地に物を運んでいた可能性が高いという。

なお、海洋航海技術に関しては旧石器時代の開始時期、つまり3万年前頃に黒潮に乗って渡ってきた人々が日本人のルーツの一部とされ、その実証実験にも成功している。

3万年前の航海実験成功、丸木舟で黒潮横切る 台湾から沖縄へ
3万年前、日本人の祖先がどのように海を越えてきたかを探る実験航海に挑んだ国立科学博物館のチームが9日、丸木舟で台湾から200キロ以上離れた沖縄県・与那国島に到着…

DNAの調査でも南方系の遺伝子が日本人の中にあることは間違いないので、それなりの数の人々が海洋ルート(沖縄ルート)で日本に渡ってきているだろうとされている。

そういったことから考えても、縄文人たちが船を使って外洋まで漕ぎ出せた可能性はあるし、航海技術もそれなりのノウハウが残っていた可能性はあるんだよね。

弥生土器との違い

一般的に「縄文土器と比べると形・装飾が簡素で、高温で焼かれて明るく硬い」と評されるらしいが、実際にはかなり線引きが曖昧であったようだ。

縄文土器に比べると焼成温度が高く仕上がりは全体的に赤みを帯び、燃料に触れたと考えられる部分に黒斑が生じている。また弥生後期になると重ね焼きが行われたと考えられ、より効率的な生産が行われたようだ。

また生産体制については、基本的に同一集団内での生産・消費で、一部に交易に用いられる容器としての移入があったと考えられているが、いくつかの特定地域では土器自体が交易品として流通した可能が指摘されている。

と、3節ほどWikipediaの「弥生土器」の項目からコピペしてみたのだけれど、僕が考える「縄文土器」と「弥生土器」の最大の違いは、専門職人が作る美術性の高い一品物と、普段使いが容易なように薄くて軽く、より強度があるものを目指した大量生産品という方向性の違いであると、そのように考えている。

縄文土器の時代から、極めて専門性の高い職人的な存在が居たことは疑いようがない。何故なら、一般的に焼き物を行う場合に厚手で装飾のある物を作るよりも、薄手で飾り気のない物を作る方が容易で、「野焼き」と呼ばれる焚き火を使ったような焼き方では、均質な土器を作ることは困難でからだ。

これを効率的に焼くためには、専門の職人が居たと考えるべきだろう。厚手の焼き物は中に水分が残っていると割れてしまうため、複雑な模様の付いた縄文土器を作るためには経験と勘に裏打ちされた技術が必要となる。

こんな感じの検証を含めた動画も色々出ているので、参考になると思う。

ともあれ、土器や土偶には専門性の高い美術品的性格があって交易によって土器や土偶が運ばれた可能性は分かって頂けたと思う。

交易品の中に食品はなかったのか?

と、ここまで書いておいて漸く本題に入る。

縄文時代はのんびりとではあるが確実に文化が発達していて、船を使った交易を行っていた事がわかっている。ならば、食品は船で運ばれなかったのだろうか?

上里遺跡の調査 上里遺跡は、京都市西京区大原野にある縄文時代から中世に至る複合遺跡です。道路新設工事に先立つ発掘調査のうちの 2006 ~ 2009 年度調査において、縄文時代晩期(約 2,800 年前)の集落跡がみつかりました。

~~略~~

魚類の骨には少量ですが、タイの骨もあり、交易などによって海の幸を入手していたこともわかりました。

(公財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館「縄文時代の食」より

色々な遺跡のゴミ捨て場より食物残渣が確認され、その内容物の研究が行われていて、どうやら海産物などは交易によって入手していた可能性があったことがわかっている。

ただ、穀類や木の実などは、海路を運ぶ場合には長距離搬送が難しいと考えられる。何故なら海上を長期間輸送するのは湿気の問題があって、かなりの確率でダメになりそうだからである。ただし、例外もあって、黒潮などを上手く利用できれば、台湾から沖縄まで3日弱で移動できることが分かっているため、九州まで至るのにも更に数日あれば可能という計算にはなる。つまり、短時間で移動できる海洋ルートは存在する。

黒潮や親潮などの潮流に上手く乗れば、短期間での海運は不可能ではないだろう。稲作伝来ルートが南から北へだった理由も恐らくはこれだ。

この時代はまだ帆がなかったようなので、定期的な運行ということは難しいだろう。なので、交易に船を使ったとしても、おそらくは腐らないものを運んでいたのではないかと思われる。

https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1251968/ge112_1.pdf

そういう意味では、日本国内における水田稲作伝播に船が使われた可能性は低くなるのではないか。稲を運ぶことが困難だからね。

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おわりに

ええと、なんとか着地したかったところにまでは漕ぎ着けたんだけど、若干ロマンが暴走している気がしてならない。お付き合い頂いた方には感謝。

第1回目が起源と伝来ルートの話、第2回目が三内丸山遺跡の技術が凄かった話。今回の第3回が北海道・北東北の縄文遺跡群の話と土器・土偶の話だったんだけど、話があちらこちらへと飛んでしまって申し訳ない。

が、この話はあくまで水田稲作の伝来ルートを追う話である。うん、忘れてない。

多分、第4回で目処が付くと思う。付くはずだ。付くと良いな……。

コメント

  1. アバター 山童 より:

    ども。おお! 土偶と埴輪が底流で繋がってる発想は無かったのでビックリ!
    言われてみると……。
    基本的に埴輪は、相撲起源である、当麻蹴速と野峰宿禰の決闘と、後者の子孫である土師(ハジ)氏が進めたもの。
    殉職による犠牲を止める為に、土師氏が天皇に上訴して始まったと。
    蹴速がフック(鈎)を武器に用いたという記述が記紀にあるので、蹴速は半島北部の遊牧文化の影響を受けてると。
    んで、半島系の高麗神社の神楽と、土師氏を祀る鷲宮神社の神楽を比すると……
    高麗神社は、明らかに金属音(シンバル系)の使い方がテュルクとか、半島系に       似ていて、鷲宮神社のと異なる!
    古代相撲そのものが打突のある総合格闘技なので、どっちにしても半島からの移民の影響を受けていて、土師氏らは先発、高麗神社側は後発の帰化人だったと想定してたんです。
    故に「土偶の影響を受けていた」の発想は眼から鱗が落ちましたね!!
    けど、縄文が日本文化のマザーボードだとすると、それ大いに可能性があると!
    んで、交易と土器なんですけれど!
    確かな実例があるでないですか!
    ティオワナカンですよ!
    あのメキシコのピサロに滅ぼされる文明は、土器の輸出により、周辺部族を従えていった交易文明なんですね!
    ユーラシア大陸の文明は、より後発である金属器文明で塗替えられていて、その為に「土器の文明への影響」を軽視しがちなんですけれど。
    耐熱性の強い器を持つことで、それまで食用に適さなかった物を食物に変える事が出来る! かなり重要ですよ!
    実際、金属器文明にしても、冶金と金属加工技術を持った集団が都市を作り、
    その金属器(主に農具と武器)を周辺に交易する事で、「農村」が都市の周りに形成される。これは常道です!
    日本は列島で、あちこちに山で分断されてるから、こういう「農村が後から形成される」のをピン!と来ないんですが。

    寒冷化で食料資源が頻してくれば、より多くの自然資源を食物に転化できる耐熱土器が輸出品になるのも当然かと!
    実際、ティオワナカンもそうして王国へと進化していったのだし。

    交易については、琥珀や翡翠、黒曜石などを主な品目とすれば、成り立つとは思いますね。これらはかさばらない!
    もともとジュエリーが宝になったのは
    神秘性もあるが、黄金や鉄に比べて軽量で運びやすいからですよ!
    麻薬と同じ(笑)

    それと国内に関して言えば、木霊様の提示した関東の水没地図(東京湾の拡大地域が、まんまハザードマップの低地と一致してる!下町から、さいたま新都市あたりまでは海か低湿地)ですが……
    実は日本全国そうですよ。だいたい!
    吉備にあたる地域とか、近世になって戦国時代から埋め立てられた地域ばかりで、古社のある場所は、もとは海沿いの断崖線の上にあった場所が多い!
    つー事は……ですよ!
    水運が近世まで日本の主な輸送方法だって言う事ですね。陸送は戦後でないすか。だって、内陸部には河川から人力で船を引っ張っていたのだもの。ボルガの船引きみたく。江戸時代もそれ主体!
    浮世絵観ると良く解る。
    それに武蔵野は「胸刺し」、秩父は「乳部」から転じた地名で、これはタトゥーと関係ある!
    アジアで唯一、小舟での捕鯨が残る地域では、タトゥーを胸や背に彫る風習があって、これは海面に落ちた時に、太陽光の反射の中で、仲間を救出するサインになるからなんですね!
    縄文人がタトゥーの風習を持っていたというのは、彼らが海洋性または水運を良くする人々の子孫だったからと想うす!
    そうした事を関連付けると、木霊様の想定通りに、古代からかなり国内、海外に小舟で乗り出していた可能性が高いと。
    そういう事を記事から考えました。
    いや、面白い!!🎉
    んで、蝦夷が何者か問題など考えると、
    私は木霊説はかなり有力と観るんです!
    稲だけ考えていると、日本が何故に半島のような中華に染まらなかったのか?
    が説明つかんと想うので、実は脱線であっても脱線ではない記事と思いますね!
    グッジョブ!!

    • アバター 山童 より:

      水運主体については、何で明治まで日本には馬車が存在しないか?を考えれば答えが出てると思います。

    • 木霊 木霊 より:

      相変わらず博識ですねぇ。

      ティオワナカンと言われてピンとこなかったのですが、ケツァルコアトル神が出てくる文明ですね!(どういう理解の仕方なのか)
      ともあれ、ティオワナカンはまた極めて高い文化レベルを持っていた文明なので、あれが紀元前50年頃から始まったと言われても、ピンとこないですね。だって、日本で言えば弥生時代に相当するわけでして。
      ただ、後の回で触れますが、学生時代に学んだ話よりも随分と縄文時代も弥生時代も文明の程度が高く、ティオワナカンのような石作りの立派な建造物が残っているわけではないので目立たない感じですが、実はかなり色々な彩り豊かな文化があったのではないかという風に感じました。
      学ぶと言うことは、何とも楽しいことですね。

      タトゥーの話はそういえば見逃していました。
      今回のシリーズに含めるかはさておき、その辺りも勉強してみたいと思います。タトゥーの話と繋げると、おそらく北海道方面に目が行くような気がしますが。

  2. アバター 山童 より:

    追記の追記)
    カンナ流しあるでないですか。
    山を切り崩し、渓谷に段々状の池や淵を作り、それらに比重差を利用して砂鉄を沈殿させ回収するやつ!
    じゃあ山奥まで歩いていったかと言うと、そりゃ舟でしょう!どう考えても。
    日本の平地の少なからずは、近世の埋め立てもあるが、古代からカンナ流しで崩した山の砂礫が下流へ流されて蓄積されたものも多いと思います。
    これはもう縄文じゃなくなりますが(笑)
    飯能にゆくと、飯能駅から少し多摩川を
    玉川上水路から見下ろせる位置へ行くと、そのスロープの頂点に住吉神社ある。言うまでもなくオリオン座を象る航海神の社ですね!
    なんで多摩川の上流の、丘陵に航海神の社があるんだ?と思いません?
    佃島じゃあるまいし!
    そりゃ、砂鉄を求めて舟で上へ上へと上がってきたからでしょう?
    平将門も源頼朝も、旗揚げする時は、
    海沿いの低湿地から始めてます!
    常陸か鎌倉かの違いはあるが。
    そして彼らを庇護したのは、俘虜つまり
    朝廷に下った蝦夷の子孫ではないすか。
    武者の騎射技術も、日本刀の反り(蝦夷の蕨手刀の進化系)も、もともとは蝦夷から武士団に伝わったものです。
    という事は、それよりずっと前から、ヤマト王権が拡大する前から、舟で内陸へと向かう道があったから!そう考えるのが妥当と想うんですね!

    • 木霊 木霊 より:

      カンナ流し……、あ、鉄穴流しですね。
      宝暦年間(1751年10月27日~1764年6月2日)の話なので、随分後の時代ですよね。
      管流(くだながし)とか筏流し(いかだながし)はルーツが古く江戸時代には始められていたそうで、それ以前の歴史には資料がなく不明なのだとか。縄文時代にどうだったかは分かりませんが、人々が集中して住み始めた弥生時代には山から木を切り出し、運ぶ方法に使われていても不思議はありません。海運の関係もあったでしょうから、河口付近に集落を作るという発想はあったのでしょう。山から木を流して運んだとしても不思議はありませんしね。鉄穴流しはその延長なのではないかなぁと(妄想です)。
      いやはや、楽しいですね、資料の乏しい歴史に思いを馳せるというのは。

      • アバター 山童 より:

        まんま木霊様の説の実証が熊野水軍と熊野大社だと思います!
        熊野水軍はもともと熊野大社の氏子らの集団水軍であり、主な幹部は紀伊半島の浦々を支配する海の領主です。彼らは朝廷→鎌倉幕府→室町幕府と、紀伊半島の先端(大社本宮)に河川から丸太を降ろし、それを大阪湾まで運ぶ許認可を得ていた。
        いわゆる回船業の始まりで、朝廷から業務独占認可された神人(じにん)すね。
        で、そうなったのはもともと丸太を筏に組んで川を下ってゆくワタリと言う集団がいて、彼らは鉱山や冶金技術を持った修験者たちと、都の建設業者を結ぶリエゾンだったのすよ。それを一貫した工程にしてしまう方が合理的なので、河口付近に熊野大社本宮を立てて、そこを水軍のネットワーク拠点にしたんすね。
        で、それらが中世に入る前に既得権益化されているという事は、少なくとも京都に都を設立する時点ては、
        紀伊半島→大阪湾→淀川→京都と木材を山から都市建設予定地まで運ぶシステムが出来上がっていたと。
        でないと、京都の前に天皇家があちこち遷都できた理由が説明つかない。木材を潤沢に運べるからこそ、
        天皇ごとに遷都を繰り返せたわけてすよね?
        それに弥生時代で金属器を作るには
        大量の薪、木材が必要すね?
        たから、熊野大社の設立過程から逆算すると、木霊様説ような、山からの「木の道」は、ヤマト王権が伸長し始めた時期には確立していたと想うんです。

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