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【第1回】古の稲作、水田稲作どこからやってきたのか

歴史ロマン
この記事は約10分で読めます。

一部の方のご好評を頂いたヤマト王権ネタなんだけど、今回は水田稲作に絞って、少し書いていきたいと思う。

【小田原 観光スポットレポ】中里遺跡ポケットパーク – いにしえの関東で稲作始まりし場所

2024.03.18

日本。別名、瑞穂の国。まさに米によって栄える国。 日本の稲作の歴史については諸説あるものの、関東では弥生時代中期(約2100年前)には始まっていた事が、小田原の中里遺跡によって証明されています。

湘南人のサイトより

日本人が稲作に異常な執念を燃やしているのは、米の消費量が落ちた現代においても続いている。日本人と稲作とは切っても切れない関係がある。僕はそのように考えている。

そうそう、最初に断っておくけれども、僕はこの手の研究をやった文系の人間ではなく、あくまで機械工学系の勉強をした理系学生だった。だから随分と浅い知識なのだが、その辺りは了解頂きたい。趣味に走った話で申し訳ないのだけれど。

そして、どうやら歴史ロマンはなかなか深く広いものらしく、第1回では終わらない感じで、水田稲作伝来ルートに絞ったのだけれど既に第2回まで書いている。気長にお付き合い願いたい。

  • 水田稲作のルーツは長江文明
  • 日本の水田稲作は、伝来ルートの定説が崩れる
  • 朝鮮半島ルートは否定材料が増えてきた

水田稲作伝来ルートは遺跡発見によって変遷する

水田稲作伝来ルートの整理

現状、政府公式には、水田稲作の伝来は「中国大陸から、もしくは朝鮮半島を経由して日本に伝わりました」ということになっている。

米が育んだ日本の歴史と文化

日本で稲作が始まったのは、いつ頃からと考えられているのでしょうか。

約1万前に中国の長江流域で始まったと推定される稲作は、中国大陸から、もしくは朝鮮半島を経由して日本に伝わりましたが、それがいつ頃なのかははっきり分かりません。稲作には主に畑での栽培と、水田での栽培がありますが、現在の日本でも一般的な水田稲作は、約3000年前(紀元前10世紀)に九州北部に最初に伝わったと考えられています。水田稲作は、それから約300年後(紀元前7世紀)には近畿地方まで広がり、約600年後(紀元前4世紀)には本州の北端まで伝わりました。この時代、雑穀やソバなどの穀物も畑で細々と栽培されていましたが、水田稲作の生産性が高かったので、稲作が広がったと考えられます。そうして日本は、イノシシや鹿などの動物、魚介類、木の実などを採って生活する狩猟社会から、定住して共同で米を作り生活する農耕社会へと徐々に変化していったのです。

gov-onlineより

教科書でも学ぶような内容なので、詳しい突っ込みをするのは避けておくが、現在考えられる伝来ルートは大まかに分けて「北方ルート」と「南方ルート」に分けられる。

そのうち、「北方ルート」の方は、長江文明から水田稲作が発祥し、朝鮮半島を通ってくる「朝鮮ルート」と、直接海を渡る「江南ルート」、そして、「南方ルート」の方は「海上ルート」ということになる。

……なるんだけど、今のところは、陸地との距離から考えると、南方ルートのほうはかなりキビシイのではないかと見られている。沖縄や台湾で稲作を裏付ける遺跡が出てないというのも、その理由の1つである。

長江文明起源説

水田稲作の発祥が長江文明であるという理由は、長江流域にある草鞋山遺跡(紀元前5000年頃~紀元前4000年頃)の古代水田址が世界最古の水田稲作だとされ、そこから発見されたプラント・オパール(植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体のことで、植物の細胞の化石と呼べるモノである)がジャポニカ米の特徴を有していたことから、ここがジャポニカ米の発祥の地であるということになっている。

朝日新聞のサイトより

ただし、プラント・オパール分析は粒径が小さく雨水と共に地下に浸透する可能性があるという問題を抱えているため、プラント・オパールだけの同定をやると、時期を見誤る可能性があるらしい。このため、同時に炭素年代測定法などを行う(プラント・オパール中の炭素を用いた年代測定)ことが推奨されている。或いは、土器の土の中から発見されたものを年代測定の参考にするそうな。

ともあれ、長江文明(紀元前14000年頃~紀元前1000年頃)のうち、比較的早い段階から稲作が始まった可能性が指摘されている。これは、玉蟾岩遺跡(紀元前14000年~紀元前12000年)で稲籾が発見され、仙人洞・吊桶環遺跡(紀元前12000年)でも栽培されたと見られる稲が見つかっているからである。尤も、前者は栽培されたかが不明で、後者は陸稲栽培であったと考えられていて、水田稲作は草鞋山遺跡が最古であるということになっている。

総合地球環境学研究所佐藤研究室のpdfより引用

……水田?

実は支那で見つかった水田址は、このタイプのため池のようなところに稲籾を撒いて収穫していたらしいのだ。水田稲作と呼ぶには少々抵抗がある。が、不定形、或いは小区画水田と呼ばれる形式のものだったようで、それなりの潅漑施設をともなっていたことも分かっている。

というわけで、現状で最古の水田稲作が見つかったのが長江文明であるので、「どこ」の答えは「ここ(長江文明)」であるという意味で理解して良いと思う。実際に、現状の通説はここだってことになっている。

日本国内にある水田遺跡

さて、次に日本国内にある水田に関する遺跡なんだけど、結構な数がある。なお、水田跡だけではなくて、参考までに稲のプラントオパール(PO)の出土もリスト化しておく。

時期遺跡名地域
BC7000~AD500年東鍋田遺跡(POのみ)熊本県
BC3900年頃彦崎貝塚(POのみ:大量出土)岡山県
BC4000年頃朝寝鼻貝塚(POのみ:少量)岡山県
BC3000~2000年頃大矢遺跡(籾圧痕土器)熊本県
BC2000~1000年頃南溝手遺跡(籾圧痕土器)岡山県
BC2500年頃姫笹原遺跡(POのみ:少量)岡山県
BC1500年頃四箇東遺跡(POのみ)福岡県
BC930年頃菜畑遺跡(水田跡)佐賀県
BC500~400年山ノ寺梶木遺跡(籾圧痕土器)長崎県
BC500~400年大石遺跡(籾圧痕土器)大分県
BC500~400年中西遺跡(水田跡:大規模)奈良県
BC400年頃板付遺跡(水田跡)福岡県
BC300~100年垂柳遺跡(水田跡)青森県
BC100年~AD500年登呂遺跡(小区画水田跡)静岡県
AD200~300年日高遺跡(水田跡)群馬県
筆者調べ

ザックリと挙げるとこんな感じで、どうやら九州地方に集中的に水田跡が見つかり、時代を経て東北地方にまで水田稲作が伝来したことが想像される。ただ、それなりに有名なところをピックアップしただけなので、実際にはもっと多数の発見事例があって、整理し切れてはいない。

しかしこれらの情報から、これまでの定説が覆される可能性が出てきた。

img
お米・ごはん食データベースより

これが、政府公式の従来説で、稲作伝来は約3000年前(紀元前1000年頃)の支那または朝鮮半島より伝来したという流れだった。

ところが、稲のプラントオパールが見つかる事例だけで言えば、政府公式の「紀元前10世紀頃の伝来説」を覆す根拠が幾つも出ている。少なくとも5000年前(紀元前4000年頃)までは日本列島における稲の存在を確認出来る。特に、彦崎貝塚の土壌からは大量の稲のプラントオパールが出土しており、少なくとも縄文人が稲を食べていたであろうことはほぼ確実視されている。彦崎貝塚のケースではコンタミの可能性も丁寧に議論され除外されているので、この縄文中期の縄文人が稲作をやっていた可能性が高いことが解る。

日本国内の水田跡として水田稲作を決定づける遺跡があった菜畑遺跡(BC930年頃)が確実な証拠であり、彦崎貝塚のソレは陸稲栽培であった可能性も指摘されている。しかし、ジャポニカ米が日本に入ってきたタイミングは相当古いことが分かり、栽培していた可能性を鑑みるに、水田稲作伝来と陸稲栽培伝来は異なるというシナリオも考えねばならなくなった。今後の更なる発掘が待たれる。

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朝鮮半島ルートの否定?

水田稲作に適さない地域を通過するのは理に合わない

実はこの話、朝鮮半島ルートへの疑念にも及ぶ。

僕にとっては朝鮮半島を通過しても、しなくても特にどちらでも良いのだが、歴史的な観点からすると、朝鮮半島における水田跡は松菊里遺跡(紀元前850~300年頃)が最古となり、ソレより古い慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡(紀元前1100年頃)が見つかってはいるのだが、出土数が少なくデータが揃っていないこともあって年代測定がイマイチ信用出来るか分からない状況らしい。それでも、そこそこの規模の水田跡があったようだ。

元々、朝鮮半島ルートは2ルート「北回り渡来説」と「間接渡来説」が想定されていた。

お米はどこからきたの

ただ、「北回り渡来説」は、そもそも寒冷地域を稲作伝来に想定するということで無理ではないか?ということと、松菊里遺跡が南側に位置することと、北側には遺跡が発見されないことから、かねてから疑問視されてはいた。

研究成果によって従来の説は容易に覆る

そして都合の悪いことに菜畑遺跡が、松菊里遺跡よりも古いことが解ってしまったことで、「間接渡来説」が濃厚ではないか?という議論と、寧ろ日本から朝鮮半島に伝来したのではないか?という議論が生まれている。

img

説得力はそれなりにあるよね。

尤も、調査が進んでオクキョン遺跡(紀元前1100年頃)の年代がもうちょっと信頼性が高いことを照明できれば、再び朝鮮半島ルートは支持される可能性はある。

こうした遺跡発掘を根拠とする話は、新たな証拠が出てくる毎に覆る傾向にあることに注意せねばならないね。

いずれにせよ、水田稲作伝来ルートを調べる上では幾つもの証拠を積み上げる必要があるんだけど、それ以前に陸稲栽培伝来があった可能性を考えると、話は一気にややこしくなる。

栽培の難易度から言えば、陸稲栽培の方が容易であるため、定住している民族であれば、それなりに気軽に始められる栽培方法であると言われている。ところが水田稲作の場合には灌漑設備が必要になるために、集落の人数規模と水源の確保や平地の開墾など、様々な困難性がつきまとう。

長江文明における水田稲作の発祥を考えるに、それ以前は陸稲栽培であった可能性を否定できないものの、日本に水田稲作が伝来したにも関わらず陸稲栽培から始めたということは、些か理屈に合わない。

ジャポニカ米は寒冷地域でも育成可能であるとはいえ、基本、水田稲作をするためには温暖な気候である必要がある。現在のように北海道でも育成できるようになるためには近代の品種改良まで待たねばならない。例外的に垂柳遺跡(紀元前300~100年)での大規模育成例があるのだけれど、後述するように、一時期温暖な時期があった影響だと考えられている。

ほぼ無人の時代があった朝鮮半島

近代の研究から、紀元前18000年~6000年頃までは朝鮮半島は「ほぼ」無人であったということが分かっている。

これらの推計は、発見された遺跡・遺構・遺物の数などと年代測定技術などから割り出された人口変動のようで、近年の韓国における研究で解ってきたことのようだ。

岩手日報より

かつては、稲作も渡来人によってもたらされたというストーリーが紡がれていて、朝鮮半島における土器の出現は紀元前6000年以降というのが定説なのである。

更に、ここから時代が下って紀元前4500年頃から少し人口が増え、再び紀元前2000年頃に人口が激減。再度人口が増えたのが紀元前1000年を少し過ぎた頃とされている。

日本語の意外な歴史より

タイムスケールが解りにくいのだけれど、グラフは6000年前(紀元前4000年)から2000年前(紀元前0年代)までを示しているので、朝鮮半島において水田稲作が広まったであろう紀元前1500年頃から急激に人口増加が始まり、何故か紀元前1000年頃に再び激減してしまう。

おそらくは気候変動の影響か、或いは飢饉、洪水、蝗害、これらの複合要因。或いはそれに起因した戦乱が考えられるけれども、どれであったかは定かではない。いずれにせよ、紀元前の朝鮮半島は定期的に人が消える土地だったのである。

そうすると、文化伝来という意味では都合の悪い土地である。文化の醸成にはそれなりに長い時間が必要なのだが、割と短いスパンで無人になってしまったことが分かったからね。実際に、紀元前300年頃に朝鮮半島での稲の栽培は殆ど見られなくなったとされている。それに伴って人口も激減してしまう。

こうやって考えると、朝鮮人の気質、すなわち気が短くて生き急ぐ感じや、嘘を付いてでも利を追求する姿勢は、歴史に裏打ちされたモノなのだという気がしてくる。

あとがき

とまあ、個人的感想はさておき、従来の説には懐疑論もあって今尚研究が進められているよと言うお話であった。

ここまで朝鮮半島ルートを否定的に書いては来たが、正直結論はどちらでも良いのだ。それよりも、「学んできたこと」が大きく書き換えられつつあることに対する驚きの方が大きい。

おっと、そろそろ長くなってきたので、その話は第2回以降に持ち越しにさせていただきたい。

コメント

  1. アバター 山童 より:

    ども。やはりねぇ……というか日本列島から半島に逆に輸出されてた…までは考えませんでした。最近の歴史研究の変化は凄いなぁ。聖徳太子や足利高氏の肖像画が教科書から消えてますしねぇ。
    満洲の吉林省とかは寒いに関わらず米どころなのですが、実は明治以降に品種改良重ねた日本の植民者が遠因になってるそうで。古代の特に寒冷期に半島で稲作やったか言うと疑問ありますよね。
    てか、埼玉県の高麗神社の氏子の菩提寺てある聖徳寺を見るに、ソンブレロみたいな防止被った文官や、革鎧着た武官の像が立ってるんですが、ひつじ連れてるんですよ。彼らヤマト朝廷に東国開発を任された半島人が半農半牧だったのが良く解ります。秩父の和銅黒谷を開いたのも羊太夫でせう? 業績を刻んだ石碑(日本で二番目に古い文字石碑)が北関東だかにあったなぁ。
    んで、ですね……半農半牧となると、まぁ水田耕作は完全にムリだと想うすよ。
    陸稲でもダメではないかと。
    麦と米を比べると、前者が一粒あたりから八粒の収穫あるのに対して、米は40粒になる。それもコレは中田の場合で、
    上田はもっと多い。その代わりにメチャクチャに手間がかかる!
    麦は撒いたら後はそんなに手間かからないんです。中世ヨーロッパで三圃制で農地を三交代するのは、この手間いらない粗放農業だからなんですね。その代わりに羊とか飼うわけです。
    つまり米は労働集約型であり、統率して収穫を管理する組織が必要でせう。
    木霊様の御指摘するような無人地帯が出現するような歴史では、とうてい継承は難しい。その辺りを考えると、日本より大陸北方民族文化の影響が強い半島で、
    当初に稲作が発展したとも思えない!
    その辺りが騎馬民族征服王朝説が否定された一因でもあった気がします。
    中国江南→九州→日本列島→半島の方が
    可能性的には高い気がするんです。
    もちろん遊牧系でも奴隷に農地を運営させるやり方はあるんですが、奴隷は食物が必要ですからね。当時の農業生産力を考えると、それも怪しい。
    ただジャポニカ米が半島の米ルーツだと、それはそれでゲノムが一致しないのも変とも思える。そこは不思議ですね。

    • 木霊 木霊 より:

      色々書きたいところですが、続編をお待ちいただければ。

      さておき、米が労働集約型だという指摘は面白いのですが、おそらくその話は水田稲作の話であり、陸稲の方はもうちょっと楽に生産できるとされていますから。
      そして、おそらく朝鮮半島での稲作は日本から渡った人々が担っていたんではないのかなという気はしています。そこは完全な妄想なんですけど。

  2. アバター 匿名 より:

    東鍋田遺跡のPOは陸稲だと結論が出ていたはず。

    • 木霊 木霊 より:

      > 東鍋田遺跡のPOは陸稲

      そうですか、僕の見た資料では「可能性が高い」という程度でしたから。
      稲のPOだけでは水田稲作の根拠になりにくいのは事実だと思いますが。

  3. アバター 山童 より:

    与太話(笑)
    前述の羊太夫の石碑すが。
    江戸時代の九州大名が巷にある不思議話を書きまとめた「甲子夜話」の中に、
    この羊太夫の石碑の元から「JINRI」と刻まれた銅板が見つかったと書かれてます。JINRIはINRIの古称で、
    「ユダヤの王ナザレのイエス」の意味。
    んで、その銅板は紛失(そもそもあったの?)されてるんですが。
    千葉県のナントカ古墳でユダヤ人埴輪が発見されて、やっぱり日ユ同祖なんだ〜
    とムー界隈が賑わいでましたね(笑)
    鼻高く、ラビみたいな円錐帽子を被り、
    美豆良のもみあげがレゲエみたいに長い巻毛の埴輪。ユダヤのラビそっくり!
    でもねぇ、ユダヤのラビがそうした格好(巻毛ロングもみあげ+円錐帽子)になるのは17世紀からなんですねぇ。
    石碑の古代には存在しない(笑)
    じゃあ銅板はどーなんだ??
    そりゃキリシタンが埋めたんでせう。
    関東にもキリシタンはいて、マリア観音らしき彫刻は残ってます。
    そして九州の大名が記録しとるくらいたから、羊太夫と異民族の伝承は当地にはあったのでせう。伝承を利用して、棄教するキリシタンが嫌疑がかからぬように埋めたんでせうねぇ。
    まぁ状況証拠で語ると古代史はガバガバという実例ですねぇ。

  4. アバター みみこ より:

    「稲作の開始をもって弥生時代とする」
    と、むか~しの教科書にあった記述が子供の教科書からは消えていましたね。
    しつこいまでに「銅剣銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の二つのだ円の図を覚えさせられた気がしますが、それも今は姿を消しているようで。
    歴史は何かの発見でがらっと変わる可能性があるのでおもしろい、とか私は思ったりします。
    で、朝鮮半島の影響力は従来(無理にしつこく)言われていたより、ずっと小さかったのが事実じゃないかと。文化は中国から海上ルートで来たのがほとんどだったんじゃ。
    半島は「街道」が発達していなかったらしいし、最近まで「(民泊ではない専門の)宿泊施設」が(特に地方では)ほぼなかったらしいので、そもそも陸路の行き来があまりなかったと思えます。

    • 木霊 木霊 より:

      おおう、先の展開を!
      実はこの企画、現段階で第4回まで手を付けているんですが、海路使ったんじゃという話は第3回目くらいの話ですねー。

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