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【第2回】謎に包まれた三内丸山遺跡

歴史ロマン
この記事は約10分で読めます。

さて、第2回となってしまって個人的にも驚きを隠せないのだが、今のペースだとおそらく第3回には確実に届きそうである。第2回で言及するのは三内丸山遺跡だ。

三内丸山遺跡からの出土品1855点が国の重要文化財へ 2024年秋ごろに正式指定

2024.03.15(金) 18:45

芸術や学術的に価値のあると認められた国の重要文化財に、三内丸山遺跡から1900点近くの出土品が内定を受けました。

新たに重要文化財に内定したのは、土器や石器といった合わせて1855点です。

三内丸山遺跡の出土品としては最も高さのある85センチの土器は、貯蔵用に使用されていたとされています。

青森朝日放送より

個人的に訪れてみたい縄文時代の遺跡である。

実のところ水田稲作伝来ルートの話とは少し脇道に逸れてしまう感はあるのだが、どうしても押さえておきたい話なのでお付き合い願いたい。

  • 驚きの三内丸山遺跡
  • 縄文時代では交易も行われていた
  • 脅威の建築技術と数の概念

驚きの縄文遺跡

三内丸山遺跡は常識外れ

朝鮮半島の歴史はさておき、日本の古代史において三内丸山遺跡(紀元前約3900~2200年)の発見ほど定説を覆した遺跡も珍しいと思う。

「日本列島人は、狩猟採集民族だった縄文人の系統と、日本列島に稲作文化をもたらして定住した渡来人の系統の混血によって成立した。列島の両端に居住するアイヌと沖縄の人たちは、渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した」というのが、埴原和郎氏が平成3年に提唱した「二重構造モデル」であり、それ以降これが通説とされてきた。

しかし、平成4年に本格的な発掘が開始された三内丸山遺跡の発見が、こうした過去の常識を書き換えていくことになる。そもそもアイヌ人と縄文人は別の人々だと言うことが判明しているしね。おっと、話が逸れた。今は三内丸山遺跡の話だった。

topimage
三内丸山遺跡のサイトより

この遺跡の発掘から、この地に実に巨大な縄文時代の集落があったことが解っていて、その規模からかなりまとまった権力集団があったのでは?と推定されている。

大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されていて、板状土偶と呼ばれる多数の土偶も出土することから、文化レベルもかなり高かったと推定される。

また、稗や粟などの栽培を行っていた可能性や、栗や胡桃などの種子、芋類や山菜の調理、豆類や瓢箪などの栽培までされていたことが把握されていて、エゾニワトコを中心に、サルナシ・クワ・キイチゴなどを発酵させた果実酒まで作られていた事が分かっている。

酒と言えば宗教と大きな関わりがあるので、まとまった古代の宗教組織があったものと推定される。更に、ヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどの交易品が出土していたことから、日本各地との貿易を行っていた可能性が示唆される。

ところが、この三内丸山遺跡は、約5900~4200年前(紀元前3900~2200年)の栄華を誇った後に滅びてしまう。これほどまでの栄華を誇った文明がなぜ滅びたのかは不明だとされるけれど、第1回で説明した朝鮮半島の事件と割と似ているんだよね。

縄文時代の温度変化

ここで気温の話をしておきたい。

6000年前(紀元前4000年頃)は世界的にヒプシサーマル期(気候最適期)と呼ばれる温暖な時期が始まっている。これは太陽活動が活発化したことで、夏の気温が現在より2~4℃高くなる時期で、ネオグラシエーションと呼ばれる時期(5500年~5000年前:紀元前4000年頃)までその気候が続いたようだ。

そして迎えるホーマー極小期(紀元前750年前後)とギリシャ極小期(紀元前330年前後)と呼ばれるの冷涼化の影響と、その間の比較的温暖であった時期(紀元前500~400年)。日本の水田稲作が北上するのはこの時期であったとされている。

が、弥生時代直前になって古代後期小氷期を迎える。

img

これのイメージ図がこちら。

この気温の変化の話から、三内丸山遺跡の衰退や、それ以上に寒かったと思われる朝鮮半島での受難というのは、おそらくは寒冷化によるモノだと推定される。

支那における文明の衰退もどうやらこうした温度変化に左右されていて、長江流域の人々の移動(避難)も、気候変動に翻弄された可能性が指摘されている。

日本列島もその例外とはならず、弥生時代の遺跡が日本列島の南側によっている理由もそういった理由であったろうといわれている。

図:弥生時代の主な集落分布図

山地ではなく平野部に遺跡が増えて、西日本各地の平野(濃尾平野、奈良盆地、和泉平野、河内平野、摂津平野、岡山平野、筑紫平野、福岡平野、早良平野、唐津平野、糸島平野、嘉穂平野等)の遺跡の数が増えるのである。

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文化レベルは高かった

交易ルート

三内丸山遺跡の話を出したのは、朝鮮半島の遺跡が滅んだ時期が似通っていたという話だけで出したわけではないのだ。

実は、三内丸山遺跡の交易の話が凄いと思ったから、である。ご存知翡翠は日本国内でも見つかる宝石の一種で、新潟県の糸魚川原産のものが有名である。縄文時代の遺跡から見つかる翡翠は、その殆どが糸魚川周辺からのもののようである。そして、黒曜石の産出場所は複数あるが、多くは北海道からだと考えられている。だが、新潟県の佐渡ヶ島や長野県霧ケ峰などから産出したものも含まれていた事がわかっている。

地図にすると分かるが、縄文時代の交易で日本の半分ほどの地域に分布していたことが分かっている。三内丸山遺跡が交易の中心地であり、幅広い流通がなされていたことも分かってきている。

なお、アスファルトは一体何に使ったのか?といえば、どうやら接着剤代わりに使ったようで、黒曜石の鏃の端に付着していたことが確認されている。アスファルトには強い粘着性と撥水性を示すことが分かっているので、縄文人もこうした知恵を使っていたと考えられる。

文化的交流が伺えるのは何も交易だけではない。

環状配石墓に埋葬された

縄文人の墓にも、各地で類似性が見られる。

三内丸山遺跡の墓は環状配石墓という石を環状に配置する方法で埋葬されている。こんな感じだ。

実はこの様式は、秋田県男鹿半島大湯にも見られる。大湯環状列石と呼ばれる史跡だ。

縄文時代後期前半(紀元前約2500~2000年)の遺跡で、日本で最大のストーンサークルである。世界各地にもこの形式の列石は見られるが、墓としての機能を備えているものと、日時計状組石として日時計中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっているという機能を備えているものがあるようだ。

こうした縄文時代の類似遺跡は日本に幾つかあって、おそらくは宗教的意味を持っていると考えられている。

三内丸山遺跡にこの文化がどのタイミングで採用されたかは不明だが、イギリスのストーンヘンジは紀元前2500~2000年というから、この時期に世界的な流行をしていた可能性はある。紀元前3500~2500年頃、中央アジア北東部からシベリア南部にかけて栄えたアファナシェヴォ文化も似たような様式の埋葬方式が採用されていたらしく、ウラル系民族がこの文化を運んだと推定されている。これらを根拠として、縄文人たちとの血の繋がりなんかも指摘されているね。

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復元掘立柱建物

ところで、三内丸山遺跡の目玉モニュメントと言えば、こちら。

木製建造物であるため、当然ながら現代技術で再現されたモノではあるのだが……、この復元根拠は柱を埋めるための穴が設けられていたこと。

なかなか奇っ怪なことではあるが、正確に等間隔に並んだ掘立柱の跡が発掘されている。この穴の中から、当時の柱の根っこだと思われる炭化した木材が発見されたことから、この穴は建造物を支える柱を立てるための穴であったと推定され、木材の傾きなどを考えると、上部で連結された構造物であったことが推認される。

これらの論拠から復元されたのが上の写真の建造物なのである。

あくまで復元模型ではあるが、他の地域で発見される高床式の倉庫などとは一線を画す大きさなので、同じ建造物であったとは考えにくい。そしてこれだけの巨大構造物だったとすると、一人で作ることは不可能。作業者と指揮監督者がいたと考えることが適当である。さらに言えば設計者がいた。

発掘された掘立柱建物跡
復元された掘立柱建物

他に発見された掘立柱建物跡は、他の史跡と似たような大きさで、高床式倉庫であったと考えられているが、大型建造物の柱跡の直径は最大2m、深さも2m程度となかなかないレベルであった。このため、この柱を必要とした構造物が在ったと考えられたわけだ。

柱の位置の謎

ところがこの話には、興味深いことが分かって、世の中を驚かせた。

考古学者の小林達雄氏の研究による

二至二分(春分・夏至・秋分・冬至)を知る上で必要な配置であった可能性が高いのだという(注:この話、角度計算が間違っていて当時のソレとズレているという話も近年出てきている)。この説は、大湯環状列石の日時計状組石にも似たような機能があったことが分かっていて、縄文人が植物栽培をやっていたと仮定すれば、むしろこういった機能があった方が腑に落ちる。

大集落が形成されて、そこでの食物を確保する一助として農業が営まれていたのであれば、二至二分を知る必要は当然にある。

そして、あれだけ巨大な柱を人力で6本も立て、かなり精密な位置関係にあった。柱の間隔は4.2mである事が分かっていて、この距離が何を基準とされていたか?という話が出てくる。

縄文尺と呼ばれる単位35cmが基準になったのでは、という説があって、これを紹介しているポストなのだが、人の肘から指先までの長さって、そんなに一定というわけではない。多少は個人差があるからね。

そうすると、このような大きな建築物においては長期間にわたる作業と、多数の人の手が入るから、全ての柱が等間隔に並ぶ為には、基準となる定規の代わりの道具の存在があって然るべきだということになる。指揮監督をした人物の人体尺(肘から指先までの長さ)がたまたまそうだった可能性はあるが、6本の柱が歪みなく等間隔で並んでいた事実を考えると、基準尺があったと考えるほうが自然だ。

更に言うと、巨大構造物を立てるにあたってどうしても必要なものがある。それは設計図と水平器だ。設計図は材料の切り出しなどには必須だし、水平器は構造物を組み立てるのに必要だ。証拠も何も無い話ではあるが、なかったとは考えにくい。

交易と「数」の概念

と、少し話は戻るが、縄文人達が交易を行っていた事実と文化交流もあっただろうと推定される話は理解頂けたと思う。

狩猟だけする石器時代から、定住し始めて料理をするための土器を使い始めた縄文人達は、一部植物の栽培を行うだけではなく交易もしていた。そして、その時に通貨代わりとして用いられたのが矢じりや稲などの物品貨幣であったことが推定される。上の図で黒曜石の産出地がやたらとバラけている理由は、それが通貨の代わりであったことを意味しているのだ。

そして、交易が行われていた前提で物品貨幣が流通していたとするならば、おそらくは縄文人には「数」の概念があったのだろうと言うことになる。これは巨大構造物を造る上でも必須であり、おそらく設計もされていた。紙の存在があったかは知らないが、少なくとも数字の概念がないと巨大建造物の設計にはちょっと不都合であるように思われる。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/kitadai/j_kouza/kouza-17.htm

実際にそういった研究もなされているようではあるが、縄文人が使ったのは十二進数であるという説はある。6本柱の構造物を建てていたことを考えても、整合性はとれる。

三内丸山遺跡から発掘された板状土偶

上の写真のような平板土偶が三内丸山遺跡から出土しているのだが、その装飾にはどうやら数の概念が見て取れて、十二進数であった証拠ではないか?という話である。こじつけのようにも感じるが、他に根拠もある。

現代において十二進数と言えば時間の概念なのだが、縄文時代には日時計が存在していたことは上述した通り。日時計の存在からも時間を12等分にするという発想は世界を見渡してもさほどおかしな理解ではないはずだ。

実際に、紀元前1500頃のバビロニア人は時間を12分割して、十二進法や六十進法を用いたことが知られている。三内丸山遺跡はソレより古い紀元前約3900~2200年に十二進数の概念があったと推認されるから、「まさか」といわれる方もいるかもしれないが、上に説明したよう流れを考えると、どうしても「そうだった」可能性はあると言わざるを得ない。

余り文化人類学的な分野に踏み込んでいく気はないのだけれども、宗教的施設があり、死者を墓に弔い、交易をしていたというのは、従来の縄文人のイメージを覆すにはおつりが来るレベルの話である。

ちょっと前までの日本史の常識を如何に覆したかが解って頂けるはずだ。

おわりに

……おい、ちょっと待ってくれ、三内丸山遺跡の話で第2回は終わってしまったんだけど。水田稲作伝来ルートの話に戻るどころか、もう一つの縄文文化に触れる前に終わってしまった。仕方がないので第3回に続くことにしたいんだけど、この話、需要在るのかな?

忘れてしまうといけないので、このシリーズはあくまで水田稲作伝来ルートの話であるということ、最後に念を押して終わりたい。

コメント

  1. アバター 山童 より:

    ども。やっと読むこと出来たす。配転で研修やら訓練やらで。
    んで面白いのは、やはり木霊様はエンジニアなんだなぁ。
    「自分が作るなら何が必要か?」から考えているから、色々と腑に落ちる。
    基本数の概念やら素材利用方法やら。
    十二進法ぽい土偶なんか、実は古代の計算機だったのですねぇ。
    翡翠についても面白かった。物部氏が滅ぼされた辺りから、それまで日本で重要視されてきた翡翠や勾玉の存在が消えてゆくと想うのですが(埋蔵金伝承みると宝は黄金、漆、珊瑚で、ジュエリー文化は明治維新まで日本から消える)
    もともとジュエリーというのは魔除けてすからね。翡翠が重用されたのは貿易ぐう実用と、もう一つ聖具としての信仰が関与した可能性が高い。動物のトーテムを飾るような原始信仰より一段、高度な信仰体系を持っていた可能性ある。
    すると冬至や夏至などの暦も産まれて、
    数的な概念が進歩する。
    だから巨大建築(あの柱のデカさ何なのだろう?)も産まれる。数値の概念なきゃ設計てきないですもの。ありゃ場当たりで作れる代物じゃないですよ。
    木造の巨大環状列石みたいなものだった可能性は否定できませんね。
    んでアスファルトやコールタールすね。
    縄文人が構造船を持っていたかは謎ですが、接着剤あると浸水を防げるから、
    カサの小さい翡翠とかなら半島や大陸まで運べたのでないですかね。
    もともと極東方向へ人が進出してきたのって交易問題すから。
    殷(商)が貨幣として子安貝を利用していて、市場規模の拡大と共に通貨不足となり、東方沿岸民族を攻めたのが、黄海周辺に移住が増えた理由だったそうで。
    翡翠は美しいだけでなく、硬くて保存性が高いから、玉として尊ばれたはず。
    アスファルトで破損箇所を直す事ができれば、かなり遠くまで交易に出る事が可能だった想うです。
    そして、航海技術には天測と暦?は必須でありましょ。
    一方的に大陸や半島から文明来ましたというよりも、縄文人もそこそこ高度な知識や技術を持っていたから、こちらも向こうに何らかの貢献というか、影響与えた可能性がありますね。
    気象に関しては大事ですねぇ。
    結局、文明の興亡って気象条件に左右されてきましたから。
    さて稲作渡来から話が逸れたと申されてましたが、結構に大事な回だと想うんですよ。今回の記事は!
    道教が古代神道に深く影響しながら(おそらく道教の渡来は仏教より古い)、
    たとえば壬申の乱で天武天皇は羅盤を用い奇門遁甲(八門遁甲)で戦略を練っているのですが、テクノロジーとして道教体系を用いながら、道教は根づかなかった。そこには、中華文明とは違うマザーボードが存在したからで、そのマザーボードは実は縄文文化なのではないすか?
    そういう事を色々と考えてしまいました。やぁ個人的に大ウケ😁
    3回目もあるあるのが嬉しいです😁

    • アバター 山童 より:

      個人的にはこの記事で、もしも現代文明滅亡したら、何からエリアを再建し、それを広域へ広めて文明再建するにはどうするか?というシミュレーションに感じて、歴史というよりSF的に楽しみました。

    • 木霊 木霊 より:

      古代の話は文献が出てこないので、想像するのは面白いんですが「これだ」という結論は出しにくい。
      それ故に面白いんですけどね。

      楽しんで頂いて何よりです。どうやら第5回で終わりに出来そうですが、ちょっと途中を膨らましすぎましたね。第2回と第3回はセットで良かったのかも。

  2. アバター 七面鳥 より:

    こんにちは。

    需要?つまり読むヤツ?

    「いるさっ ここにひとりな!!」(コブラの例のポーズをとりながら)

  3. アバター 山童 より:

    いや、七面鳥様は読んでると思いましたよ。木霊様もそうでせう。
    どー考えても読んでる。ただお忙しいと申されてたから!
    あたしゃ研修を終えたら米政府のパス発行まで農作業してるだけてすが。貴兄はそうはゆかないでしょうから。
    でも、なんとなく仲間がいて嬉しい😄

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