スポンサーリンク

【第5回】二重構造説と水田稲作の伝来

歴史ロマン
この記事は約19分で読めます。

「絶対、第4回で終わる」と強い決意で臨んだんだけど、結果的にアレもこれも付け加えたら長くなってしまって2つに分ける結果に。そして、結論のところでどうするか迷いに迷って、記事も遅れる羽目に。途中でトラブルもあったしね。

で、流石に今回が最終回である。

内容を調整していくと、だんだん伸びちゃうんだよね。不要なところを削除すれば良かったんだけど……。さておきこれで最後である。大切なので2回言ったが、諦めてお付き合い願いたい。

「弥生人」とは何者か 急速に進む核ゲノム分析、見直し迫られる通説

2023年9月27日 17時30分

「弥生人」とは何者か。縄文時代から日本列島に住む在来の人々と、海外から先進技術を持ち込んだ渡来人が徐々に混血しながら弥生文化を担う――。そんな人類学上の通説だった弥生人観が、近年急速に進む核ゲノムの分析で様変わりしようとしている。

朝日新聞より

引用したこのネタ、朝日新聞に大好きな人がいるのか、結構色々記事になっていて面白かった。記事の要旨は核ゲノム分析で通説が崩れつつあるという本稿と似た流れのようだけど、有料記事なんで読めてないんだよなぁ。

  • 伝来の「前提」が何なのかによって、色々変わる
  • 北海道・東北においても火山噴火による影響が
  • 陸稲はどこから来たのか?

伝来ルートはどうだったのか

いつ伝来したのか

さて、ここまでを踏まえて水田稲作伝来ルートなんだけど……。

先ずは従来説をもう一度。

お米・ごはん食データベースより

従来説では水田稲作伝来は紀元前1000年頃に九州地方へ、というのが主流だった。この説は、「水田稲作技術の伝来」という意味ではまだ崩れては居ないと思う。何故なら、現時点で日本最古の水田跡が九州の唐津市にある菜畑遺跡(紀元前930年頃)だからだ。

ただ、水田稲作の伝来はまだそれで問題ないとして、稲作の伝来はどうだったのか?というと、ここで既に従来説では説明できない事態になっている。これが岡山県の彦崎貝塚(紀元前3900年頃)の稲のプラントオパール大量出土だ。第1回では詳しくやったけれども、かなり慎重な手順で確認されたので、コンタミの影響は排除して良いだろう。

偶然ではなく、多数の稲のプラントオパールが紀元前3900年頃と推定される地層から土器と一緒に出てきたことで、その当時の縄文人が米を食べていたことはほぼ確実となった。

長江文明(紀元前14000年頃~紀元前1000年頃)の早い時期に生まれた水田稲作だが、日本に「直接」伝わったのであれば彦崎貝塚の稲のプラントオパールはいつ、どこへどうやって持ち込まれたのだろうか?

そしてもう1つ、縄文時代の船の話を持ち出しはしたが、実際に海を隔てた文化の伝来というのはそれなりにハードルが高い時代であった。果たして、本当に海を超えて米を持ち込んだのは紀元前1000年頃だったのか。

陸稲はどこから?

で、長江文明では、ジャポニカ米を作っていた事がわかっている。ここの稲は温帯ジャポニカという種類であった。ただ、現代では考えにくい話ではあるのだが、どうやら同じ水田で複数種類の稲を同じ場所で作る混植をやっていたらしいということも分かっている。

縄文・弥生のイネは、畑作むきの熱帯ジャポニカ種

DNA(デオキシリボ核酸)分析を駆使して稲作の起源を追求するなど、めざましい活躍をしている静岡大学農学部の佐藤洋一郎助教授。縄文・弥生時代の農耕はどんなものだったのか、農業と人間の関わりはどうあるべきなのか、話を聞きました。

~~略~~

――弥生時代の稲作についてはどうですか。

弥生時代の水田跡から見つかる米も熱帯ジャポニカが多いんですよ。それに雑草のタネも膨大な量がみつかっています。このことから弥生時代になってからも、水田稲作という技術の導入はあったでしょうが、何年か稲を耕作した後、休閑期間を設けるという“焼畑的稲作”がやられていたんではないかと僕は考えています。イネの品種も雑多な、多様な稲作形態だったと思われます。

――“焼畑的稲作”があったなんて信じられない感じ。でも多様な稲作というのは面白そうですね。

そうなんですよ。たとえば米粒の大きさを測ると、現代の米粒は大きさがそろっていますね。でも弥生時代~中世の遺跡から出る米粒の大きさは、今の品種の五倍から六倍のバラツキがあるのです。つまり一つの田んぼでいろんな品種を混ぜて栽培しているんです。

なぜ混植したのか。その利点はリスクを避ける、災害回避だといわれますが、もう一つ積極的な意味があるんです。つまり多様な自然というのは安定した状態なんです。

農民データベースより

なかなか衝撃的な内容である。この佐藤氏は京都産業大学の教授にもなられて、既に退職されている。この記事は静岡大学の助教授時代のインタビュー記事なので、2002年頃のちょいと古い内容なのだが、参考にする分には問題なかろう。

で、縄文時代の稲も弥生時代の稲も、温帯ジャポニカ(ジャポニカ種)だけではなく熱帯ジャポニカ(ジャバニカ種)の品種を複数混ぜて栽培されていた可能性が高いという。

アジアの栽培イネはインディカ種とジャポニカ種に大きく分けられるがが、ゲノムを詳しく調べたところ、この2つは20万年以上前に分かれたことが明らかになっているとか。元は1つの種であったらしいが、インディカ種は日本国内に入ってきていないので、日本で分かれたという話はできない。米の種類としては他にジャバニカ種(熱帯ジャポニカ)があり、現在日本では生産されていないけれども弥生時代の水田跡からは見つかるのだとか。

そして、縄文時代から弥生時代にかけても、焼畑農業的な陸稲栽培をしていた可能性が指摘されている。水田稲作の技術が伝来したとは言っても、陸稲栽培に近い作り方をした可能性があるということだ。

そうすると、この問題はそもそも前提から覆る話になるように思う。つまり、「稲作は水田稲作と共に日本に入ってきたのではない」という可能性だ。ジャポニカ米系列の品種は日本にもっと古くからあって、「水田稲作の技術が日本に伝来した」という意味である。

スポンサーリンク

「二重構造説」に疑問を投げかける

縄文時代末期の人口減少

さて、ぶっちゃけた話、「朝鮮半島から紀元前1000年頃に九州に水田稲作が伝来しました」という話は、南方からやって来た縄文時代の人々を「原日本人」と規定し、弥生時代に北方系の人々が朝鮮半島から日本に大量に移住してきて、縄文人たちを駆逐し置き換わったという話がベースになっている。

縄文人の骨格と弥生人の骨格は発掘された骨から、異なることが判明しているので、別の人種に置き換わった「置換説」や「移行説」が有力で、縄文人と渡来人が混血した「混血説」は説得力に欠けているとされていた。

しかし、1991年に出てきたのが「二重構造モデル」と呼ばれる「混血説」に近い発想の「説」である。南方系の「原日本人」と混血をして、渡来系弥生人が誕生し、追いやられた縄文人たちは北海道と九州・沖縄方面に移住していったとした。したがって、琉球人とアイヌ人は同じグループに属する人々をルーツにするとし、実際にDNA調査を行ってその近似性を確認したのだ。

Wikipediaより

この話を補強するものとして、縄文時代の終わりの急激な人口減少がある。

この人口減少についてはDNAの調査によっても裏付けられている。

縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明

2019.06.25

縄文時代の終わりに急激な人口減少があった—。約2500年も前のこうした興味深い現象を東京大学の研究グループが現代の日本人男性のDNA解析から明らかにした。寒冷化により狩猟生活をしていた縄文人の食料が減ったことが原因らしいという。

サイエンスポータルより

縄文時代のうち、比較的温暖だった縄文初期から中期に向かって人口が増え、末期に突然人口減少したというの話は、気温の変化とも連動しているように考えられる。グラフを見ると唐突に減少したかのように見えるが、実際は100年スパンの話になるはずだ。

これは第2回で紹介した図で、縄文時代末期に寒冷化が訪れたことを示している。この寒冷化が人口減少に影響したと見られている。たかだか平均気温1度程度の変化ではあるが、去年あったようなドングリの不作みたいな話が数年単位、数十年単位で起きる。そうすると、植生自体が変化し生活する人々にも大きな影響がある。

縄文人達にも遺跡に倉庫跡と思われるものが出てきている以上は食料備蓄の概念はあったハズだが、年単位での食糧確保をしていたわけではないだろうから、不作による飢えが縄文人達を襲ったハズだ。

すると、約2500年前の縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していたことが明らかになった。男性の人口だけでなく女性を含めた全人口が急減したと推定できるという。この時期は、日本を含み世界的に気候が寒冷化しており、気温が下がったことで食料供給の減少が人口減につながったとみられる。

サイエンスポータルより

そしてそのことはDNA調査のアプローチからも裏付けられたというのが、サイエンスポータルに紹介された内容である。

二重構造モデルは「叩き台」

ただし、この「二重構造モデル」を提唱した埴原和郎氏は、このモデルはあくまで「叩き台」であるとしており、発表当時から全てを説明できるというものではなかった。そして、後になって二重構造モデルのベースになっている縄文人が日本列島の中で西から東まで均一な人種であったという仮定が崩れる。「本土日本人の7割から9割は渡来人系統」というのが二重構造モデルの推定であるが、実際には「本土日本人男性の4割は縄文人系統」である事が分かっている。

また、縄文人はそもそも南方系と北方系の混血であることがミトコンドリアDNAハプログループから確認されており、日本列島には何度も異なる民族が渡ってきて混血が進んだことが分かってきたからである。このことは、Y染色体ハプログループの調査でも確認されている。

近年の報告でもこんなものがある。

渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ

2021年6月23日 2:00

私たち日本人は、縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したところ、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。

日本経済新聞より

一見、二重構造モデルを説明する内容にも思えるが、しかし二重構造モデルの考え方であれば、九州地方はもっと渡来人由来のゲノム成分が強く出ないと説明がつかないように思う。

第4回で鬼海カルデラの話をしたが、紀元前5300年頃(縄文前期)に九州一帯の縄文人達は一時的にいなくなる。一方で縄文時代晩期に日本列島を襲った(世界的な気候変動ではあるが)寒冷化が、再び縄文人達に影響を与えるわけだが……、南部よりも北部の方がその影響は強かったのだと思われる。

縄文時代晩期に水田稲作が始まっているとすると、寒冷化が始まってから水田稲作を始めたことになる。食料貯蓄の要請から水田稲作を始めたという考え方もできるが、北方にはそうした危機感はなかったのだろうか?

人口増加率が高かった地域の集団ほど縄文人度が低い

また、中国四国地方で渡来系のゲノムが強くなるのは、この地域に多数の渡来人が定着したからだとして、そうすると鹿児島県の縄文人由来のゲノム成分が強すぎる理由は一体何だったのだろう。ゲノムの話と九州地方から水田稲作開始という話とはどうにも齟齬がある様な気がしてならない。

近年の遺伝学や考古学の成果から、縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだとみられている。弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。

日本経済新聞より

遺伝学や考古学の成果によって、「縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだ」という事が分かってきて、「二重構造モデル」登場以前の「置換説」や「移行説」では説明がつかない。

そして、「二重構造モデル」を用いるにせよ、渡来人の遺伝子の広がりと水田稲作の伝播が同期すると考えるほうが自然なのだが、従来考えられている水田稲作の伝来パターンとゲノム解析の結果は合わないように思える。

今回、大橋教授らは、現代日本人の縄文人と渡来人との混血度合いの地域差を示すために、縄文人由来の遺伝子変異の保有率に注目しました。

まず、本土日本(日本列島人のうち本州・四国・九州)の居住者約1万人のデータを用いて、各都道府県の集団がゲノム中に縄文人由来変異を何個保有しているかをカウントすると、縄文人由来変異保有率は青森県・秋田県・岩手県・宮城県・福島県・茨城県・群馬県・鹿児島県・島根県などで特に高いことが分かりました。対して、近畿や四国の各県では特に低いことも示されました。また、縄文時代晩期から弥生時代にかけての人口増加率が高かった地域の集団ほど、現代では縄文人度が低いことも分かりました。

Newsweek「DNA解析から縄文人度の高い地域を探れば、肥満や喘息になりやすい県民も分かる?」より

水田稲作が普及した地域ほど、渡来人由来のゲノムを沢山持っているという研究成果も出ていることを考えると、水田稲作の普及に渡来人が寄与したことは確実だろう。が、それは渡来人が縄文人達を駆逐していったというよりは、技術顧問として招き入れたという構図だったのではないかと推測される。

ただ、渡来人のゲノムが強い場所では、渡来人の人口が多かった可能性が高い。つまり、渡来人系の有力者が積極的に稲作を行ったのではないかと思われる。

スポンサーリンク

黒ボク土の分布

稲作に向く土地がある

あと、農業を営むにおいて非常に重要な概念だが、土に合った農作物か否か?という話は考慮しなければならないだろう。

「火山国ニッポンと土壌肥料学」より

日本列島を覆うこの黒い部分は何か?というと、「黒ボク土の分布」を示しているそうな。僕もこの話を調べるまでは知らなかったが、「黒ボク土」とは、黒くて歩くとボクボクする土という意味なんだそうで、火山灰の風化物からできた土壌のことを指している。

数千年単位で地上に降下した火山灰が風化してできる土壌で、植物の育成が悪くなる性質があるようで、水田稲作の伝播についても、黒ボク土地帯を避けて移動したと見られている。第4回で火山の話を扱ったのは、そういった意味もあるのだ。

土壌肥料学者の藤原彰夫氏の説によると、日本のもっとも古い水田の遺跡は九州北部の玄界灘沿岸の平野に集中しているが(図の①)、水稲がつくりやすい土壌である。そして、四国辺りから近畿にかけてはそういった土地が続いており、現在の大阪府や奈良県付近まで短期間で到達し(図の④)、ここに米の一大生産地が生まれた。⑤の登呂遺跡辺りより北には黒ボク土の壁があるため、ここからの伝播には時間を要したとのこと。北陸地方や東北の日本海側に見つかった水田稲作の跡は、南から黒潮にのって直接伝来した可能性が指摘されている。

九州の黒ボク土はいつ出来上がったのか?

さて、そういった話がある前提ではあるんだけど、じゃあ九州地方は鬼海カルデラの影響で結構長い間、農業に適していなかった地であったのではないか?という疑問が生じる。

南部九州の特殊土壌地帯の農業開発」より

実際に黒ボク土の分布以外にも、シラス、ヨナ、アカホヤ、ボラ、コラ(ボラとコラに関しては近代に形成されている)などと呼ばれる火山由来の堆積物の積もる大地があって、この辺りは縄文時代にも(新第三紀中新世には大半が形成されたとされている)植物の育ちにくい土地であった。

渡来人が集落に招かれなかった原因、つまりゲノムに渡来人由来のものが混じらなかった理由は、案外こうした土壌の関係が影響していたのだろうね。

まあ、実は坂元A遺跡という宮崎県都城市の遺跡には縄文時代晩期の水田跡が見つかっているので、黒ボク土が完全に稲作伝来を阻止したという話ではなさそうだけれども、傾向という意味では参考になりそうではある。

スポンサーリンク

語られない伝来ルート

四国ルート・近畿ルートはあり得るか

さて、この話はネットでも出てこないようなネタなのではあるが……、そもそも北九州を起点として稲作伝来したという話は正しいのだろうか?

ゲノムの分布を見たり、岡山県の縄文遺跡からのプラントオパールの発見の話などを見聞きすると、何となくだが九州を起点とする伝来ルートには違和感を感じる。

その思いを強くしたのが、潮の流れ関連のニュースを目にしたことと関係している。ジャポニカ種だけでなくジャバニカ種も混植されていたことを考えると、案外黒潮に乗って伝来するルートがあったのではないか?という風に思ったり、そもそも長江文明は今は水没してしまったが黄海辺りにも集落があったのではないか?という妄想が掻き立てられるのである。

コメントにも頂いてはいるが、スンダランドと呼ばれる海没してしまった土地に海底建造物が発見されたという話もあった。

BS-TBS|番組詳細

確証のない話なのではあるが、黒潮に乗った民が日本列島に稲をもたらしたのだとしたら、農業に向いていなかった九州よりも、四国にたどり着いて稲作を始めるというパターンだって考えられるのである。

それと朝鮮半島から九州に水田稲作が伝来したという説には、潮流のことを考えると少々違和感もある。朝鮮半島と日本列島の間には対馬海流が流れていて、その影響を受けたのであればもうちょっと北側に漂着していてもおかしくはないのだ。

核ゲノム解析でわかること

さて、話が逸れたようで逸れていないのだが、ここでもう1度核ゲノム解析の話を整理しておきたい。

このグラフを見ると、縄文人とアイヌ、琉球の人々が縄文人のゲノムに近く、本土日本人は漢民族に近いように見える。これをもって「二重構造モデル」が裏付けられたという理解をする方もいる訳なんだけども、最近は「実は三重構造ではないか」という議論もあるようだ。

小竹貝塚研究プロジェクトのペーパーより

こちらの方が分かりやすい図かな。この話は縄文・弥生時代に直接関係なさそうなので、さておくが。

ただ、「二重構造モデル」の延長で言われるような100万人規模の渡来人の「入植」が一時にあったという話は崩れて、段階的に複数のルートから渡来した人が居たのだろうという話に移行しつつある。

黒潮の流れなどを見ると、南方から直接四国や近畿に渡っていった渡来人がいても不思議ではなく、そこから稲作が広まっていると考えてもおかしくはないと思う。本土日本人と琉球のゲノムが近しいのは、同じルートの渡来人に由来するからだと思われる。しかしそうすると、沖縄や台湾で水田遺跡が出てこない事の説明が付きにくいが、それは単純に人数が確保できなかったから水田稲作をすることができなかったと言うことなのかも知れない。

長江文明の中断

ところで、この話を追いかけているときに面白い話に遭遇した。

世界最古の水稲栽培文明を滅ぼした急激な寒冷化イベント

2018年12月1日

◆長江デルタの近傍から採取された海洋堆積物コアを用いて、過去の表層海水温変動を復元した結果、約4400年前~3800年前に大規模かつ複数回の急激な気候寒冷化イベントが発生したことを発見した。
◆本研究により明らかになった気候寒冷化イベントが、約4200年前に長江文明が一時中断した一因となった可能性が高い。
◆過去の気候変動の規模やメカニズムを明らかにし、その人類文明への影響を評価することにより、今後の地球環境変動予測とその対応策の検討につながることが期待される。

東京大学 大気海洋研究所のサイトより

長江文明が気候寒冷化イベントによって、一時期中断の憂き目に遭ったのが紀元前2200年頃のこと。

中国の長江デルタでは、約7500年前から世界最古の水稲栽培を基盤とした新石器文明が栄えたが、約4200年前に突然消滅し、その後300年間にわたり文明が途絶えた。多くの考古学者や地質学者が研究を行ってきたが、原因について統一的な見解は得られていなかった。

東京大学 大気海洋研究所のサイトより

長江文明の担い手達が各地に散っていた時期があったとすれば、紀元前2200年頃ということになる。これが日本で言うところの縄文中期なんだよね。

倭人が来た道のサイトより

もっと区大敵に言うと、長江人と縄文人の漁の仕方に多くの共通点がある(黄河文明には共通しない)という指摘もあって、長江文明が朝鮮半島を経由して伝来するには黄河文明の栄えた地を横切らねばならず、少々不自然である。

直接伝来した可能性が高いとされる河姆渡かぼと遺跡は紀元前5000~3300年頃の遺跡で、それより前に栄えた長江中流域の湖南省彭頭山遺跡(紀元前7000~6000年頃)から下流に向けて稲作が伝わったと推定されるため、船に乗った長江人が日本列島に流れ着いたことで、稲作が始まったというシナリオは描けるわけだ。

スポンサーリンク

まとめ

コレまでに見てきた点

さて、このシリーズ、脱線を繰り返して5回まできてしまったので、整理しよう。

  • インディカ種とジャポニカ種が分かれたのは紀元前2万年より前であることが分かっている
  • 紀元前18000年頃までは、陸を通じて日本列島付近まで支那人が移動できる余地があった
  • ジャポニカ系の稲が長江文明の初期(紀元前14000年頃)に作られた
  • 犬は紀元前5400年頃から日本列島で確認されている
  • 鬼界カルデラを作った火山活動の影響で、紀元前5300~4300年頃の九州地方はほぼ無人だった
  • ジャポニカ種の稲は、紀元前3900年頃には日本列島に存在した可能性が高い
  • 水田稲作農法の日本伝来時期は、水田跡発見を根拠に紀元前1000年頃
  • 猫は紀元前200年頃には日本列島で確認されている
  • 水田稲作が青森辺りまでいきわたるのは弥生初期(紀元前100年頃)から中期頃
  • 縄文時代には船で交易が行われていた節があるのに、水田稲作自体は東北方面に伝播したのは弥生時代に入ってから
  • 縄文時代から弥生時代に入っても、水田稲作は複数の種類の稲を混ぜて育成する混作がメイン。縄文時代は焼畑的稲作だったのではないかという推論も
  • 縄文時代はそもそも農業メインではなかったことが、大規模稲作の伝播を妨げていた可能性が高い

この辺りが押さえておきたいポイントである。あ、三内丸山遺跡とか大平山元遺跡の要素が殆ど入っていないのはご容赦願いたい。

上記から考えられること

さておき、以上のことを踏まえて推論を組み立てていきたい。

第1に、インディカ種の稲が日本に広まっていない以上は、インディカ種とジャポニカ種に分かれた後に伝来したものであり、水田稲作技術も伝来しただろうことは疑う必要がないことだろう。ただし、時期から考えてジャポニカ種の稲の伝来が長江文明由来であれば、伝来時期が水田稲作の手法が定着した時期以降に、水田稲作と一緒にジャポニカ種が日本に伝来する方が自然である。

第2に、火山噴火の影響で紀元前4300年以前には九州で稲作自体が難しく、仮にその頃以前に伝来したのであれば九州以外の地が先になった可能性はある。そもそも稲作は労働集約型で、特に水田稲作は農地の拡大にも田植えや収穫にも人数を要する。焼畑農業的なやり方であればもっと楽に作ることはできるようだが、それでもまとまった土地を必要とするため、火山灰が降り積もって土地の養分の乏しい九州地方において、積極的に稲作が行われる動機は乏しい。

第3に、そういう前提から考えると、「岡山県の彦崎貝塚(紀元前3900年頃)の稲のプラントオパール大量出土」を根拠としている弱い部分はあるが、ジャポニカ種は紀元前3900年頃には水田稲作の手法と共に四国や近畿に伝来したというシナリオが成り立つのではないか。

ただし、土地の改良や人員の確保などの問題でしばらく日本には定着せずに、簡単に行うことの出来る焼畑農業的な陸稲栽培が主流となって、稲作は細々と広げられた。それも恐らくは複数ルートから伝来した可能性が高く、様々なジャポニカ種が日本に入ってきた。水田稲作が広まるに要した時間は、従来は600年、近年では800年程度である(それでも中部地区辺りまでは200年程度で広がったと見られている)とされているので、技術者の移住(漂着)と共にジワジワと広がっていったのだろう。

というわけで、少々主流とは異なる珍説となってしまったが、昨今の発見を取り入れて話を組み立てると、こんなシナリオも成り立つ、というお話であった。この他にも色々な説を唱えている人がいて面白いので、色々調べて見て欲しいと思う。

おわりに

水田稲作が主流になるには色々条件があると思う。

1つは人口密度、1つは水源豊かな平野に集落があること、1つは土壌、1つは気候、そして穀類を保管できる環境があるかどうか。穀類を狙うネズミ達を駆除するためには、犬ではなく猫が必要で、支那でも古くからイエネコが飼育されていた。日本でイエネコが登場するのが弥生時代以降だとされるが、逆に言えばイエネコが飼育できるような環境(日本では野生のヤマネコは生存しにくい環境らしく、現代においても一部の地域にしかいない)が整備されるのが弥生時代以降(餌となるネズミが豊富になる)という風に見ると、見えてくる風景も変わってくる。

そして、朝鮮半島への伝来はやっぱり日本経由か、日本伝来と同時だったのではないかな?と思う次第。この辺りの議論は第1回に済ませたんだけど、まあ、これはどちらでも良い。

こうした話は今後も新しい水田遺跡の発掘やDNA解析の進捗によって変わる可能性があると思う。今回のシリーズは珍説を披露するような格好になったが、重要なのは以前から考えられてきた話とは違うシナリオが描けるようになってきたという事である。

そして、昨今もDNA解析技術や年代測定手法も確立してきたことで、新しい発見が時々聞かれるようになった。だから今後も、こうしたニュースを楽しみに待っていたいと思う。

コメント

  1. アバター 山童 より:

    ども。私としては珍説でなく、最新情報を噛み砕き練れた説だと思います。
    黒ボク土については、地図を観て納得したのですが、これ朝廷の牧が開かれて馬の育成された地域とまんま合致してますね。九州と関東が中心で、関東なら茨木と群馬か。そこから推察するに、火山性の草原つまりススキの原が広がっていたのでないですかね。だから稲作普及を阻みかつ後に馬産地となった。実際に牧は九州と関東北部が中心で、厩戸皇子の甲斐の黒駒は伝説としても有名。
    それと紀元前4300年頃まで鬼界カルデラの噴火で無人地帯になった九州。そこに縄文人が再度に入植したらしい事を観ると、木霊様の仰る通りに寒冷化なのでしょう。
    私は縄文晩期だかの人口の急減にはもう一つの可能性があると思います。
    成人T細胞白血病ですね。九州などにキャリアが多い。潜伏期間が半世紀と長いので、平均寿命が短い時代はあまり問題視されてなかった病ですが。
    ただ……ウイルスは弱毒化に進化するそうですから、当時はコレが強毒性で発症が速い病原体であった可能性が高い。
    縄文時代にすでに何らかの水上交易路(黒曜石などの)があったならば、あちこちに伝染したでしょうし。
    寒冷化で食料不足になった所へ疫病が重って人口激減したのではないですかね?
    九州方面にキャリアが多いのも、寒冷化で南下する縄文人が九州へ持ち込み、そこで弱毒化へ進化して残ったと考えれば辻褄は合いませんか?
    20年以上も前ですが、私が看護師や鍼灸の学生だった頃は、疾病学や公衆衛生学の教官は、この説を唱える人が多かったです。何にせよ縄文人が人口激減した時期があるのは事実で、納得いきます。
    ただ、その時に山地に逃れた人々がサンカ(山窕?)とか傀儡(くぐつ)になったという説は間違いだと思います。
    彼らは中世〜近世の内乱で漂白民となった人々で、縄文人の子孫じゃないですよ。まぁこの辺りを深堀りすると同◯問題と引っ掛かりそうなのでやめときますけれど。

    • アバター 山童 より:

      あ、あとこの成人T細胞白血病ウイルスですが、キャリアの多い地域というと、
      沖縄、九州(とくに長崎県)、四国の太平洋側、中国地方の日本海側、紀伊半島、 
      んで飛んで東北、北海道となる。
      これまんま提示された黒潮の分岐図と一致してるんですね。つまり沿岸沿いに伝搬していった!
      そして木霊様の説の黒ボク地帯を飛ばして東北や北海道に分布する!
      縄文系の血が濃い地域ですね。しかし関東や北陸などにはあまり見られない。
      そして中国港南や韓半島にはあまり見られない疾病なんですよ。日本いがいでは顕著なのはオセニアや西アジア、アフリカへ飛んでしまう。すると挙げられていた地域としてはズンダランドが起源で、
      弥生人らの前に日本列島へ伝搬していた。かつ、猛威を振るった時に(おそらくウイルスは急激な強毒性に短期間に進化した)、水上から九州、沖縄へと逆流きたのでないですかね?
      性交によっても感染しますが、主に母乳による垂直感染するウイルスなので、
      寒冷化と病を乗り越える個体の中で、弱毒化に進化したと。
      分布域に寒冷化の人口減を合わせて考えると、そのように思えるのですけれど。

    • 木霊 木霊 より:

      なるほど、病気の可能性というのはあまり考えていませんでした。
      縄文人たちは集落を作って生活をしていても、交流がある以上は伝染病の可能性というのは考えておく必要があるのでしょうね。
      だけど、そうした話はなかなか骨だけになった状態からは推測が難しそうです。

  2. アバター 七面鳥 より:

    こんにちは。

    米の水耕は、連作障害の防止と、雑草の抑制の効果が高いと聞きます。
    ※クボタのサイトで確認出来ました。
    https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/rice/planting/function.html

    してみると、おかぼ→水稲の遷移が、単純に収穫量の増大と安定化を招いたのだと、ぼんやりと思っていましたが……
    バックグラウンド、こんなに複雑だとは。
    もう何回か、有り難く読み込ませていただきます。

タイトルとURLをコピーしました