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朝鮮半島におけるヤマト王権の影響力が確認される

大韓民国ニュース
この記事は約11分で読めます。

これまた与太話的な話なのだけれど、日本人としては知っておいて損のない話である。……いや、本来は知らなくても問題ない話で、韓国人が騒ぐから知識として知っておいた方が良いというべきか。

[独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見

登録:2024-03-07 17:06 修正:2024-03-08 06:29

1500年余り前に日本からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日本特産の土器が相次いで確認されたためだ。

ハンギョレより

さて、引用した記事だが、これ、韓国で日本人居住痕が見つかったという話である。別に珍しい話ではないよね。

あ、タイトルには「ヤマト王権」という言葉を採用したが、古くは「大和朝廷」という言葉が使われていた。

ヤマト王権はどこまでの影響があったのか

1500年前の話

朝鮮半島における1500年前はどんな時代だったのか?といえば、525年程前なので、高句麗や百済が群雄割拠していた時代である。

この時代にソウル辺りを治めていた勢力は?というと、百済だ。百済とは日本との関係もそれなりに深い関係にあった国であったと、日本で編纂された日本書紀(養老4年:720年に成立)や高麗で編纂された三国史記(1143年執筆開始、1145年完成)などで確認できる。

この時期に存在したとされるのが任那日本政府と呼ばれる組織で、この存在については「日本書紀」に見られる。

尤も、この存在について「三国史記」には確認が出来ないために、学説の域を出ないとされている。

任那日本政府はなかった

韓国側は、「なかった」説を採用しており、再三再四、「なかったのだ」と主張している。

日本の学者たちも「任那日本府はなかった」(1)

2010.03.23 08:46

韓国と日本の歴史学者たちは日本が強弁してきた任那日本府説に対し「任那日本府はなかった」ということで同意し、日本の教科書が関連記述を削除するよう勧告することに決めたものと22日伝えられた。

韓日歴史共同研究委員会(委員長チョ・グァン)は23日に発表する2期研究結果、最終報告書で「日本の大和政権勢力が韓半島南部で活動したことがあるが、任那日本府という公式本部を設置して支配活動をしたと考えることはできない」と意見をまとめたと委員会側が伝えた。

中央日報より

この中央日報の報道などからも確認されるように、韓国側は何としても無かったことにしたいらしい。なお、この報道は嘘が含まれていて、実際には日本と韓国との間の合意に至らなかったというだけである。

なにしろ、そこかしこから日本人が朝鮮半島にも居住していた痕跡が出てきていて、例えば、朝鮮半島において前方後円墳の存在を確認できるが、ここの被葬者がどうやら九州の豪族だったっぽいという話も出てきていて、前方後円墳自体が日本の古墳形式であることを考えると、どう考えてもヤマト王権の影響は否定しきれないと思う。

朝鮮半島で確認される前方後円墳は結構な規模なので、多数の人を動員して作らなければならない。つまり、朝鮮半島において強い影響力を持つ人物が作ったと推定される。

「伽耶史を正す慶尚南道連帯」共同代表のキム・ヨンジン慶尚南道議員(共に民主党)は先月17日、慶尚南道議会の本会議で、「伽耶古墳群の世界遺産登録推進の過程で、日本の極右と植民史学家が主張する任那日本府説が召喚された」とし、「任那日本府説を伴ったまま登録することになれば、倭(日本)が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を私たち自らが認めることになり、これは、古代から韓国が日本の植民地だったということを認める格好」だと述べた。

ハンギョレ「「鉄の王国」伽耶古墳群の世界遺産登録、最後の峠を越えるか」より

尤も、任那日本政府があったと推定されるのは伽耶と呼ばれる小国群国家であって、その一部に任那があったといわれている。

だが、こういった事実を、韓国人はどうあっても認めたくはない。例えば松鶴洞1号墳の改竄工事疑惑など、意図的に日本の痕跡を消すようなことをやった疑惑すらある。往生際が悪いというか、歴史へのリスペクトが無いというか。

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ソウル(漢城)付近で出土の埴輪

さて、そういった背景をおさえた上で冒頭の記事を読むと、なかなか味わい深い。

大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞)から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。

ハンギョレ「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」より

なんと、伽耶だけでなく百済でも日本からの強い影響が示唆される出土品が出てしまったというのである。

このケースは2つのストーリーが考えられる。

1つは、日本人主導で古墳の副葬品を製作していたケース。

もう1つは、朝鮮人主導で日本の埴輪をリスペクトして副葬品を製作していたケースだ。

土器窯の跡から出土したため、日本からの贈答品や略奪品である可能性はない。

埴輪は5世紀前半の古代日本の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。

ハンギョレ「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」より

埴輪も日本特有の土器だとされていて、3世紀後半から6世紀前半にかけて日本において製作されていた。朝鮮半島において5世紀に製造されていたことが確認されたということは、日本文化が朝鮮半島に伝来した証拠であると見て良いだろう。

なお、埴輪の用途に関しては日本国内では葬送儀礼用に用いられたものであるとされているので、おそらくは朝鮮半島のソレも同様なのだろうと予想される。

実際に、伽耶の古墳からも埴輪が出土するので、以前は日本から海を渡って朝鮮半島にもたらされていたと考えられていたのだが、ここへ来て朝鮮半島で製作されていた事実が明らかになった。

国営工房跡からの出土

更にこの土器窯、どうやら国営であったようなのだ。

この遺跡は、福井洞393番地の霊長山の麓一帯7798平方メートルの面積で確認された。百済時代に国が運営したとみられる土器窯と廃棄場施設が散在しているが、百済王城跡として有力な風納土城、夢村土城からわずか4~5キロメートルの距離なので、王室が管掌して物品を調達する国営工房施設の一部と推定されてきた場所だ。関心が集中した埴輪の破片は、2022年に遺跡の廃棄物層から黒煉瓦、軒丸瓦、平瓦、内拍子など数百点と共に発掘された。突出した帯を付けて巻いてあったり、外壁の表面に一定間隔で線を引いた日本特有の仕上げ跡(日本の考古学用語で刷毛目)がはっきりとみられる埴輪円形土器の破片であることが判明した。

ハンギョレ「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」より

かつては、朝鮮半島から日本に文化がもたらされたということが言われていたが、逆はないと理解されていた。これは、「文化は高いところから低いところへ流れる」という特性があるとされている為であり、韓国人達の自尊心からくるものでもあった。

ところがこれを突き崩す可能性のある話が出てきてしまった。

大韓文化財研究院のイ・ヨンチョル院長は、「倭の職人たちが日本から移住して百済の官窯や工房に入り、百済の職人たちと一緒に作業した痕跡と思われる」とし「墓の装飾物である埴輪の実体が、韓国の首都圏の百済施設跡で明確に確認されたのは初めて」と話した。2000年代初めに百済王城跡であることが有力な風納土城を発掘し、手のひらより小さい残片大の埴輪の破片が三点ほど出たことはあるが、大きさが小さく出土の状況が明確ではないため、大きな注目を集めることはできなかった。

ハンギョレ「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」より

韓国の歴史学者達にとっては、かなり不都合な話であろうと思う。

歴史的には6世紀に入ると任那加羅諸国は新羅に併合されていってしまう。百済も高句麗との争いに負けて滅亡してしまうので、朝鮮半島における日本人勢力もこの時期に撤退していく。なお、高句麗は唐軍による侵略で同時期に滅亡してしまったが。

白村江の戦い(天智2年:663年)は百済復興を目指して日本の勢力が朝鮮半島に兵を送り込むも、唐軍に敗北して撤退した事件である。この時期以前に百済と深い関係にあったからこそ、日本側は援軍を送ったのだが、唐・新羅の連合軍に勝つことは出来なかった。

この出来事が切っ掛けで、大和朝廷は律令国家を目指して日本という国号を名乗るに至るんだけれども。

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漢字の日本伝来

ちょっと話は逸れるが、日本列島に漢字が伝来してきたのは5世紀初めの頃であると言われている。稲荷山古墳から鉄剣銘(471年)が出土しており、その表面には漢字が刻まれていたことから、少なくともその時期にはあっただろうとされている。これも朝鮮半島経由説が根強い。

ただ、昨今では「硯」の出土に関連してもっと早い時期に伝わっていたのではないか?と言われている。

糸島の弥生遺跡に硯工房か 出土の石製品約50点

2021年5月1日 9時30分

福岡県糸島市の御床(みとこ)松原遺跡から出土した弥生時代の石製品の中に、硯(すずり)とみられる板状の石が約50点含まれていることがわかった。外交・交易の拠点でもあった同遺跡には硯の工房があったとみられ、ここから交易を通して各地に硯が広がった可能性があるという。

~~略~~

硯の一部は弥生時代中期前半(紀元前180~150年ごろ)のものとみられ、柳田さんはこの時期に交易を通して中国から硯が伝わったと推測。御床松原遺跡では近畿地方の土器も出土しており、「ここで『国産』された硯が、交易を介して各地に広がったのでは」とみている。

朝日新聞より

硯石が交易品として使われ、国産の硯石が普及していった時期は2世紀頃まで遡ることが出来るとされていて、同時に墨の出土も2世紀末に確認されていることから、文字の利用も従来言われていた3世紀よりも前、硯の出現(墨を使用した跡が見られる)を考えると、紀元前に遡る可能性が出てきている。

尤も、硯や墨が発見されたからと言って一足飛びに文字を使っていたという結論に至るのは早計ではあるが、言われていた時代よりは早い可能性は高い。

そして、言葉は日本列島にも紀元前からあっても、文字は確認されていなかったが、文字を持ったのは漢字が日本にもたらされてからだとされていて、漢字の伝来ルートも朝鮮半島を経て来たという話はちょっと怪しい感じになってきている。

ここで注意して欲しいのは、朝鮮半島からの文化伝来を否定する気はないのだ。ただ、朝鮮半島への文化伝来の可能性が出てきたという話をしたいのである。

水田稲作の伝来ルート

なお、この支那からの文化伝来ルートは、水田稲作の伝来ルートと同じであると推定される。

日本に水田稲作が伝来したのは紀元前10世紀であるとされており、それから300年後の紀元前7世紀には近畿地方まで広がっている。

この水田稲作の伝来ルートも朝鮮半島ルートが指摘されているのだが、日本の古代イネの遺伝子分析によって、稲作が朝鮮半島を経由していない証拠が出ている。DNA分析をすると朝鮮半島には存在しない長江流域の種に由来する稲が日本に入ってきているからだ。

稲作伝来、500年早まる 国立歴史民俗博物館が発表

(朝日新聞東京本社発行 5月20日付朝刊)

国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は19日、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500年早い紀元前1000年ころ、と特定する研究を発表した。北部九州から出土した土器などから採取した試料を最新の放射性炭素(C14)年代測定法で分析し、結論づけた。この結果に基づくと、日本の古代史は大幅な修正を迫られる。考古学界には慎重論があり、教科書の書き換えなどをめぐっても論議が起こるのは必至だ。

朝日新聞より

この記事で、紀元前10世紀頃に日本に水田稲作が伝わっていたことが確認されたと報じられているが、この話もこれまでの常識とされてきた文化伝来ルートに疑問を差し挟むこととなった出来事である。

尤も、伝来ルートが複数あっても不思議はないので、両方の説が正しい場合があることにも注意が必要ではあるが。

遺跡という観点から見れば、朝鮮半島東南部のオクキョン遺跡が紀元前1000年頃で、日本の北九州沿岸部にある菜畑遺跡で紀元前930年頃だとされている。誤差を加味して50~100年程度のタイムラグがあるが朝鮮半島への水田伝来の方が早かったという仮設が成り立つ。

何故仮設かといえば、ソレより古い遺跡が日韓で見つかる可能性が否定できないからだ。

しかし、仮にこの両方が最古だとすると朝鮮半島経由伝来説は少々都合が悪い。古代における文化伝来速度は現代のソレよりも緩やかであるので、100年程度の差では文化伝来したと断定することは難しい。寧ろ、同時期に伝わったと推定する方がより可能性が高い。

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遺跡の調査はもっと協力して真摯に

というわけで、色々な話を書いたけれども、少なくとも従来から言われていた一方的な朝鮮半島から日本への文化などの伝来が否定される事実が色々発掘されつつある、というのが考古学業界の熱いところなのである。

残念なことに日本にも韓国にもこの時代の文字文化が希薄で、しっかりとした資料が乏しいという事もあって、過去に何があったかは推定するしかないのだが、推定する時に役に立つのが遺跡の存在である。

それも遺跡の数が多ければ多いほど情報が多くなる。

というわけで、今後も遺跡発掘には予算を付けて、成果を真摯に出すことで、古代の日本やその周辺国の情勢がより確実に推測できるようになっていくだろうと思う。

百済の中央政府があった首都圏一帯の工房で、栄山江流域の倭系遺物より時期が早い5世紀前半の埴輪が出たことで、百済の中央政府と古代日本の間の密接な直接交流が先に進み、続いて百済の領域である栄山江流域と倭との交流が続いた可能性を示しているからだ。研究院側は来月に正式報告書を出版する予定であり、遺物の性格をめぐって学界の議論が熱くなるとみられる。

ハンギョレ「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」より

冒頭の遺跡発掘の成果によって、色々な常識が書き換えられる可能性が出てくる。が、こういった話に過去に韓国で行われたように、捏造が行われて「なかったこと」にされてしまうと、困った話となる。

歴史をコリエイトする国が、真摯になってくれる可能性は低いんだけれども、出来るだけそうならない方が嬉しいね。

コメント

  1. アバター 山童 より:

    ども。元々はこちらのコメント主の方に九州王朝説を伺うまで、古代史の事は何も知らなかった者ですが、それが契機で古代史好きになりました。歴史サイトでなく木霊樣のところが私と古代史の縁。
    それで想うんてすが、木霊樣説の方が生物学的に正しいと想う。
    それは神社で神に奉納する赤米(古代米、とても繁殖力が強く、冷水でも稲を植える事が出来る)のDNAが、ほぼ中国江南の苗族の古代米とほぼ同じだから。
    古代の稲品種だと、深い泥に植えると根腐れして収穫できない。すると冷水で育てるのが可能な赤米で、谷戸とか谷地と呼ばれる「山と平地の出会い場」に植えるしかないらしい。
    つまり、倭族が渡来させた米は、中国西南地域から来た米で、半島の連中の米とは別品種という事になると。
    現在の考古学では縄文後期にまで日本の稲作は遡る事が立証されてます。時期的に見て半島から来たのでは、品種と時期が合わない。
    任那府がヤマト王権の官営のものであったかどうかは解りませんが、そもそも倭人族が江南地域から民族移動してきた時に、山東半島経由で朝鮮南部に定住した者たちがいて、同族として日本列島に渡ったヤマト王権の先祖たちと交流していたと考えるられるのでは?
    民間が王権の代理人として領事館的な役目を果たすのは世界史的に普通の事です。民間であるから国家の代理人でないと申すなら、東インド会社なんかどうなるので?と彼らに言いたいですね。
    んで、そもそもの漢字の「国家」とは
    「王朝・朝廷のある所」を意味します。
    倭人族の「大王(おおきみ)」のいる所が「国家」なのですから、その正統王朝がある日本列島を半島南部の倭族の子孫が、ヤマトを「母国」として、その出先機関として進んで役目を果たすのは普通の話なのではないですかね?
    言葉も習慣も違う連中に服属するよりも、同族で祖先神を同じくするヤマト王権から「お墨付き」を貰う方が、半島南部の倭族もまとまり易い。
    倭族が半島を捨てて撤退したのは、一つには白村江の敗戦があるでしょうけど。
    古墳時代から、砂鉄によるタタラ製鉄が日本で発展し、鉄鉱石(日本では殆ど産出しない)を半島から輸入する必要が無くなったからではないですかね。
    出雲やヤマト王権の初期は製鉄の要が半島や大陸からの鉄鉱石や屑鉄だった。
    しかし技術革新で自前で製鉄できるようになったので、リソースを半島へ割く必要が無くなったと。
    逆に言えば、それまでは出兵してでも利権を半島で守らねばならなかった。
    当然に何らかの出先機関は設けるでせう。いつもながら、彼らの話は「願望ファンタジー」なので理解できません。

    • 木霊 木霊 より:

      歴史を辿るというのは、なかなかに骨の折れる作業であると聞き及びます。
      米を巡るDNA鑑定の調査というのは、史跡発掘と共にもっと進んでいくことだと思います。
      その中で明らかにしていけば良いことであって、従来提唱されてきた説に拘るのは愚かしいことですよね。
      その結果、朝鮮半島から米が伝来されたと言うことであっても、別に僕は困りません。

      任那府に関しては白村江の戦いにおいて、ヤマト王権から多数の援軍を送ったことからも、極めて重要度の高い「何か」が朝鮮半島にあったことが推察されます。
      それが王家縁の人物であった可能性は前方後円墳が半島に作られたことからも推察されますし、副葬品の数々からも、ですね。王家縁の人物がいなければ、斉明天皇は自ら出兵するハズもないわけで。
      その縁が切れたからこそ、日本人は半島を後にした。日本国内における技術承継はそうした背景によって為されたのだと思います。海を越えるのも命がけだった時代ですから。

      ヤマト王権は鉄器を重視し、半島からの輸入を行っていて、その販路維持の為に出兵した可能性も示唆されていましたが、それだけだと墳墓の話に説明が付けられない。たたらに関する考察も面白いと思います。学説の域を出てない5世紀後半の国内製鉄の話も、もう少し補強材料が出てこれば面白くなると思います。カラカミ遺跡あたりの研究が進むと解ることも増えるかも知れませんね。

  2. アバター 山童 より:

    結局、彼らは表音文字であるハングルを取り、表意文字である漢字を棄てたでせう? なので本来の「国家」なる漢字の意味を解らなくなってるのでは?
    何かと言うと「民族」なるワードを振りかざすのですが、それネイションを明治日本が翻訳した「和製漢語」ですね。
    ネイション・ステイツと「国家」を混同している。
    では何故にそうなること言うと、現代ギリシア人が古代ギリシア人の末裔であると「思いたがる」のと同じファンタジーなんですよ。
    どうせファンタジーにするなら「指輪物語」くらいに作り込んで欲しいものですが、そうはならんのですね。
    願望充足の手段に過ぎないから。
    願望ファンタジーだから

  3. アバター 山童 より:

    歴史的な話として、木霊樣、
    いずれ、左翼が国民を洗脳しようとしている「女系天皇を認めろ」を反証してくれませんかね。
    天皇家の王朝交代説はありますが、少なくとも継体天皇までは遡れる事は歴史的な事実てあります!
    以後、1500年はずっと男系天皇で来たわけです日本は。女系天皇制と女性天皇は違う。持統天皇など女性天皇はおわしましたが女系になった事は一度もない!
    それは皇位簒奪が氏族レベルで行われてしまう可能性があるからですね。
    別に女性天皇は反対しないんですよ。
    ただ皇位が女性皇族にあった時に、その子供が「天皇になれないのは可愛そうだ」的な感情論が必ず起きる!
    それは女性天皇と女系天皇の違いが理解されてないからだと想うんてすよ。
    明らかにポリコレが「行き過ぎ」なのが、欧米の分断の原因なのに、そのポリコレを天皇制という祖国の根幹を成す事にまで持ち込もうとしている!
    もう一回、万世一系である意味を日本人は周知すべきだと想うんですよ。
    暫く筆を控える話でしたが、歴史の話だったのでコメントしました。しかし歴史の話になるなら、やはり「今そこにある日本を分断させかねない災厄」として、
    女系天皇論を持ち出す連中には釘を刺さないといけないと思うんです。では長々と失礼いたしました。

    • 木霊 木霊 より:

      取り敢えず筆を執らせて頂きましたが、結局のところ山童さんのコメント以上のことは書けませんでした。力不足で申し訳ない。

      ただ、続けることに意味があることも、世の中には沢山あると思いました。

  4. アバター 七面鳥 より:

    こんにちは。

    古墳を削って山二つにしちゃう民族には、何言っても無駄なんですよね……

    伝統と呼べるモノがないから、史跡にも敬意を払ったり出来ないのでしょうね。

    • 木霊 木霊 より:

      こんばんは。

      古墳を削るとは罰当たりな……。
      長鼓峰古墳も閉じちゃったという話がありましたし。

      ファンタジーに重きを置く性格は何とかして改善して欲しいものです。

  5. アバター who より:

    こんにちは。

    日本語の源流たる日琉祖語も海をわたって朝鮮半島南部で使われてたっぽいですね。
    鬼界カルデラの大噴火で九州地方の縄文人たちが海を渡って難を逃れた人たちもいると考えられます。
    またその後も海洋国家として周辺地域に交易等で交流していたことを考えると日本人村なんかあっても不思議ではありませんね。

    イデオロギーが先走って現実に目を背けてしまうのは学者としてどうなのかなと思います。

    • 木霊 木霊 より:

      こんばんは。

      日琉祖語の話、というか日本語の起源の話はロマンはありますが、調査をすることが難しい話でもあります。
      日ユ同祖論という怪しい話まで派生してしまって、興味が尽きないわけでありますが、この手の話は考古学的なアプローチと言語学的なアプローチ、それと現代科学による検証を含めて色々な知恵を寄せ集めないと、なかなか理解が進んでいかないことだと思います。
      ソレを含めてロマンなんですが、ロマンで飯は喰えませんから、細々と続けられていくのでしょう。

  6. アバター 山童 より:

    や、これは大事な事を失念してました
    m(_ _)m。たしかに「鉄資源」獲得たけでは「古墳」を朝鮮に作る意味を説明てきない!
    前方後円墳はどう考えても日本独自の発明なので、天皇家に関わる重要人物もしくは皇統の方々がいたとしか考えられない。うん、木霊樣の説しか説明つきませんね。では。

  7. アバター 山童 より:

    木霊樣の仰る「天皇家縁の重要人物」に想う事があるんですよ。
    天皇家にとって、その祖先神に繋がる神官とか、分岐した王族とか。
    或いは天皇家ではないが、倭人族の日本到達に重要な働きを見せた人物。
    浦嶋子(浦島太郎)が神武天皇を瀬戸内海で(亀に乗って)導いた記紀の技術みたいな存在とか。

    トロイが木馬によって陥落した時に、戦争の原因たる王子パリスは王剣をアイネウスに持たせて脱出させますね。
    このアイネウスが流亡のトロイ民を率いてイタリア半島へ導き、ローマの起源になったと伝承されてます。まぁ時代は合わないけれど。
    このアイネウスのような人物の血統。
    天皇家が民を率いて日本列島へ渡ってくる時に、大きな役割を果たした一族。
    須佐之男は日韓ともに双方の神話に登場する人物ですが、韓に行き、そして日本へ戻る伝承がある。
    何か倭人族の民族移動と、定着後の出雲の国譲りに関与した人な気がする。
    ざっくり言うと物部氏系の誰かですかね。 
    武蔵一宮は氷川神社ですが、主祭神は大国主と須佐之男です。
    野刀神(やとがみ)という「手足の無い龍神」を祀っていて、これは稲城や、あきる野市の阿伎留神社と同じもの(藁で作る手足の無い龍神)を奉納します。

    んで、日本書紀にしか出てこない星神に天津甕星(あまつみかぼし)がいるんです。
    星神いうと、後は宗像大社の宗像三女神と、住吉神社の何だっけな?しかいないでせう? 日本神話には。両者とも航海神たからオリオン座を意味してるとか。
    天津甕星の場合、星いうても恒星ではなく金星の神だったとされてます。
    金星いうたら須佐之男ではないですか。
    金星は夜更けに最初に現れ、夜明けに最後まで輝く星で、光度は最も高い。

    つまりは「夜の太陽」なのですよ。
    アマテラス昼の太陽神とツインとなる。

    偽書だが、ホツマツタヱにも、霞ヶ浦あたりに蝦夷討伐に行った日本武尊が、その地で自分が須佐之男の直径子孫だと気づくシーンがある。
    そして常陸風土記にはヤマトタケル命を「倭健命天皇」と何故か書いてある。

    常陸地域を治めていた天津甕星は、朝廷に逆らった故に、追討されるのですが。
    メチャクチャに強くて高天原の軍神も敵わず、倭文神(シドリガミ、アニメ「君の名は」でヒロインが巫女する神社の主祭神)をピンチヒッターとして、倭文つまり繊維を縄として天津甕星を捕らえて封じ込めたという。
    これ実はアマテラスの太陽神は、元々は「夜の太陽(金星)」とツインになった信仰で、もとは韓半島にいた「重要人物(木霊説)」の血統だと想うんですよ。
    韓半島の「誰か」との繋がりが消えた時に、その血統は必要が無くなり東国へと
    帰化人のように下った。
    しかしアマテラスを絶対化する過程で、  
    邪魔者になり、彼ら(天津甕星)は歴史から抹殺されたのであると。天皇家にはコインのように表裏があった説です。
    神道にはドグマはありませんが、その基本構造には道教の影響が深いのは宗教学ては言われていて、それならば「陰陽」がなくて、陽(太陽)だけなのは変だと想うんですよ。実際、ギリシア神話でも北欧神話でも、多神教では必ず冥界(夜の支配神)と現世の昼の支配神がいる。
    半島側と列島側に主神が二柱いて、日本社会の基盤が整ううち、半島起源の神は消されたというのが私の説です。では。

    • アバター 山童 より:

      追記)夜刀神で書き忘れたけれど。
      夜刀神とは谷戸の神(蛇神)です。
      んで、私は出雲でタケミナカタに両腕を引きちぎられ、安曇へと逃げたタケミカヅチなのでないかと想うです。
      というのは、案山子は元々はヘビ🐍てあるカガで、T字型なのはちぎられた腕をつけてあける……的な意味を示すという民俗学の説があるから。
      そして案山子はヘビで、ヘビは谷戸で初期の稲作で害獣(鼠)を食う益獣でした。この両者が交わるところはタケミカヅチでせう。神話上は。
      そして武蔵から多摩地域は圧倒的に氷川神社で、出雲の国津神系です。
      私は天津甕星は出雲系の血を引く皇子で、王位継承権で命を狙われ関東へおちたと想像してます。
      そして関東に土着していた出雲系(おそらくヤマト王権に降らなかった物部氏の神官たち)に迎えられる。
      それが気に食わなかった朝廷に侵攻され、さらに奥州へと逃げた。で、彼らがタタラ製鉄を蝦夷に伝え、日本刀の原型たる蕨手刀を作った。

      • アバター 七面鳥 より:

        横合いから失礼します。

        神話で言うと、スサノオノミコトが降りてきた時、最初は朝鮮半島に降りて「ここじゃねぇ!」って日本列島に来る、という話がありますよね(大体の日本神話では省略されてますが)。
        また、群馬県吉井町(今は高崎市に併合されました)に辛科神社というのがあって、ここの祭神がスサノオノミコトなんですが、辛科神社は半島人が建てたと言います。

        何が言いたいかというとつまり、神話の昔は、半島の一部ないしそれなりの地域がヤマトと認識されている時期があったのだろうと思える、という事です。

        あくまで、史実の傍証でしかありませんが……興味深いと思ってます。

        • アバター 山童 より:

          はい。七面鳥さまお久しぶりですm(_ _)m
          韓国の連中に刺されそうな発言ですが、韓半島南部に最初に文明を持ち込んだのは倭人なのではないか?と。
          韓半島の最初の王権は、漢の建国者の劉邦の幕僚であった衛満が、粛清を逃れて一族郎党を連れ漢江を渡ったのが立証されている最古です。
          日本列島に向けた倭人の民族移動(初動)はそれ以前に、
          おそらくは春秋の呉越戦争あたりに始まってると想うんです。もちろん日本に到達するまで数世紀は掛かってるだろうけれども。何故かと言うと赤血球のなんたらパターンが、日本人と同じタイプがチベットだの、新大陸だの、やたら日本から隔絶した地域にばかり見られるからです。
          倭族の始祖がかなり早い時期に故郷を出発してないと辻褄が合わない。混血しますから。すると、海から移動してきた倭族は、半島の根本付近にいる未開人や、中華の影響で文明化した未開人よりも早くコロニーを作っていた可能性があるのではないかと。
          須佐之男の話はその表れではないですかね?
          まぁ考古学的にどうなのか解らないんですが。彼らは御指摘のように古墳を削るわ、都合の悪い遺跡を破壊するわで、信用できないですから。
          倭人についても、燕つまり北京の北、内モンゴル自治区に倭人国があったと山海経にあるんですよ。古代の月刊ムーみたいな書ですから、最初は無視してたんですが、隋書あたりになっても同じ事が記載されてる。
          これは倭人にも2系統あると言うと事なのだろうか?
          日本人の起源は謎が多すぎるんですね。

          • アバター 七面鳥 より:

            >山童さま
            ご無沙汰しております、日本人系統の遺伝的特徴が遠方で散見される話はちらちらと目にしていましたが、「山海経」とは……
            「ボクの考えた最強魔法生物集」みたいな書物ですが、だとしても、何らかのきっかけ無しにはそんな記述が残るに至らないわけですものね。

            なかなかに、興味深いです。

          • 木霊 木霊 より:

            ちょっと割り込みコメントになってしまいますが、半島のルーツに関してはちょっと面白い話があります。

            紀元前14,000年前頃に日本は土器が現れ始めましたが、朝鮮半島には紀元前6,000年前頃になってようやく土器が現れ始めています。日本と同時期にアムール川流域に土器が現れていますから、その間にある朝鮮半島だけ土器の出現が遅れるのはおかしいわけですが……。実は、紀元前18,000年前頃から6,000年前頃まで朝鮮半島は無人だったのではないか?とされています。
            何故ならば、この時期の朝鮮半島における遺物はほぼゼロだからです。

            日本における縄文時代に朝鮮半島では無人の時期があるというのはちょっと驚きですが、そこから櫛文土器時代(紀元前6,000年~1,500年の)と無紋土器時代(紀元前1,500年から300年頃)と続いていきます。ここでも不可思議なことに、櫛文土器には表面に櫛の歯のようなもので模様が付けられたことからそう呼ばれますが、無紋土器にはその模様すらなくなります。
            朝鮮半島には、紀元前4,500年頃にアワ・キビの栽培が伝わったと考えられていますが、紀元前1,500年頃にはイネの栽培(陸稲)が伝わります。ところが、この栽培はあまり上手く行かなかったようで、アワやキビ栽培の伝わった時期に人は増えますが、紀元前1,500年直前に一気に人が少なくなります。そして、イネが伝わることで再び人口が増えますが、紀元前1,000年を少し過ぎたところで大きく落ち込むのです。

            これらのことから考えると、朝鮮半島では幾度も無人になるような出来事が起こったと考えられます。そして、何度も別の民族が朝鮮半島に流入してきたと考えるべきかと。これが気候変動が原因だったのか、病気が原因だったのか、争いが原因だったかは定かではありませんが、激動の時代を送っていたと考えられます。
            文化の定着しない土地であった可能性が高く、日本がヤマト王権時代を迎えていた頃に、箕子朝鮮、燕という時代が訪れますが、秦に滅ぼされるまではあまり歴史書にも登場しない。朝鮮半島が流刑地扱いだったことを考えると、大陸から追いやられた民族が引きこもるのが朝鮮半島だったという感じだったのではないでしょうか。
            で、度々空白化するので、日本列島側からも人が流入したという事ではないのかなと。

            日本語と朝鮮語(ハングル)が似た構造になっているのは、古代に分かれた人々だったから、というのが言語学的に見ると正しかろうという話で、日本人には時代的に連続性が見られることを考えると(全期間にわたってあちこちに遺跡が見つかる)、途切れ途切れの朝鮮半島の方が末裔である可能性が高いという分析をする人もいますね。

            歴史はなかなかに興味深い。

  8. アバター 山童 より:

    木霊樣のお話おもしろ過ぎる!
    説得力もありすぎ。
    大陸じゃ、後漢末から三国志時代にかけての数十年で人口が10%まで激減したと言われてますから(400年後の唐朝になっても回復してない)、なおさら資源の少ない半島じや無人化するのでないですかね。何かと言うと「自分の先祖か起源」をちゃらすかすのが哀れに思える。

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