アメリカと同じような事を言いやがって。
ソ連対日参戦で「多くの命救った」「岸田政権は歴史直視せず」 ロシア報道官が正当化
2023年07月03日13時27分
ロシア外務省のザハロワ情報局長が2023年6月28日の記者会見で、1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を無視して対日参戦したことを「流血を終わらせる決定的な貢献」だったと正当化し、「日本列島に住む何百万人もの一般市民を含む多くの人々の命を救った」と主張した。
J-CASTニュースより
アメリカは、大東亜戦争について「戦争終結を早めるため」「米国兵士の命を救うため」に原爆投下をしたなどと言っている。敗者である日本が勝者の論理に付き合うことはないが、勝てばなんでもやっていいってわけじゃないぜ。況してやロシア、テメーは論外だ。
ロシアは論外
勝者が紡ぐのが歴史
時系列がおかしい
悔しいが、戦争は勝てば官軍負ければ賊軍だ。
そして官軍こそが歴史を紡ぐ権利がある。賊軍の理屈は官軍には通用しないのが世の常ではある。とはいえ、日本側が黙っている理由もない。
で、ソ連がふざけた主張をする国であることは、今に始まったことではない。今回の報道官の主張も全くそれに倣ったものなので、相手にするのもバカバカしい。が、まさかそれを信じてしまう人が日本国内にもいるかもしれないので、丁寧に事実を丁寧に拾い上げる努力は大切である。
そんなわけで、今更ではあるが、時系列で大東亜戦争(日本政府が昭和16年12月12日に閣議決定した名称で、敗戦後にGHQはこの言葉を使うことを禁じて「太平洋戦争」とした)の関連事項を簡単に列挙していこう。
<大東亜戦争の大雑把な流れ>
- 昭和12年7月7日 盧溝橋事件勃発
- 同年8月21日 ソ支不可侵条約締結
- 昭和14年8月23日 独ソ不可侵条約締結
- 昭和15年9月27日 日独伊三国同盟締結
- 昭和16年4月13日 日ソ中立条約締結
- 同年12月8日 日本による対米英宣戦布告により大東亜戦争勃発
- 昭和17年1月1日 対枢軸国の連合国共同宣言にソ連が署名
- 昭和20年4月5日 ソ連が日ソ中立条約締結の破棄を通告
- 同年5月8日 ドイツ降伏
- 同年7月26日 米英支三国宣言(ポツダム宣言)の日本への通告
- 同年8月6日 広島に原爆投下
- 同年8月8日 ソ連対日宣戦布告の在モスクワ日本大使への通告と共に日ソ中立条約を破棄、ポツダム宣言に参加
- 同年8月9日 長崎に原爆投下
- 同年8月9日 対日参戦
- 同年8月10日 御前会議での天皇陛下御政断を以て、交戦国への敗戦受け容れの通知
- 同年8月12日 バーンズ回答を日本の外務省が傍受
- 同年8月14日 御前会議により宣言受諾が決定され、同日付で詔勅が発せられる
- 同年8月15日 玉音放送による国民への発表
- 同年8月16日 陸海空軍への停戦命令通達
- 同年9月2日 戦艦ミズーリの甲板で休戦協定に調印
- 昭和26年9月8日 サンフランシスコ平和条約調印、ただしソ連は参加せず
コレを列挙するだけで腸に来るものがあるな。細かい説明も書き加えたいところだが、迂遠になるし精神衛生上も良くないので止めておく。
教訓としては、「勝てない戦争はやらない」「戦争には負けてはいけない」という事だな。そんなことは大日本帝国の指導者たちも始める前から分かっていたことではあるが。
宣言受諾後も日本侵攻
対日宣戦布告の後のソ連軍の蛮行に関しては、もう言及する気にもなれないので割愛するが、占守島の戦い(昭和20年8月18日~21日)とか、三船殉難事件(昭和20年8月22日)とか、樺太地上戦(昭和20年8月11日~25日)とか、真岡郵便電信局事件(昭和20年8月20日)とか、牡丹江事件(昭和20年8月25日)とかを調べていただければその気持ちは分かっていただけると思う。
アメリカ軍も大概だったが、ソ連軍は輪をかけて酷い。
そして、上記を踏まえて冒頭のロシア報道官の妄言を紹介しておこう。
「日本は1945年のポツダム宣言への参加を拒否し、早期講和の機会を生かせなかった。その結果、ソ連は連合国の義務を忠実に守り、極東における大日本帝国軍との戦争に参戦せざるを得なくなった。これは流血を終わらせる決定的な貢献となり、日本列島に住む何百万人もの一般市民を含む多くの人々の命を救った。日本国民はこのことを知っているだろうか?知らないと私は確信している。例えば、(日本国民は、原爆投下)決定の理由は言うに及ばず、誰が日本に原爆を落としたのかも知らない。赤軍は日本の軍国主義者を打ち破り、その支配を終わらせた」
J-CASTニュースより
まず、日本がポツダム宣言への参加を拒否した事実はない。
確かに、昭和20年7月26日の通告を受けて、日本政府は当初、公式な言及をしない旨の閣議決定を行っている。当時の日本政府は、もはや継戦は困難だが宣言に対する交渉の余地はあるだろうという認識だった。
そして、翌27日の日本政府の発表は、宣言の存在を論評無しに公表している。
だが、翌28日の新聞報道は、讀賣新聞「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞「笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと書き連ねた。
そして、陸軍からも強い要望が出されて、当時の首相、鈴木貫太郎は「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」と述べたという。これを受けた朝日新聞は「政府は黙殺」と報じたという。
ただ、こうした反応は連合国側には織り込み済みであったようで、即座に原爆投下の準備に入り、ソ連は対日宣戦布告に至る。恐らくロシア報道官の指摘はこの下りなのだろう。
だが、日本は8月14日には受諾受け容れの決定をしたにもかかわらず、それ以降もソ連は北海道に向けて殺到した。日本軍はポツダム宣言受諾の条件が武装蜂起だったことから、苛烈な撤退戦を余儀なくされたのである。そこに大義があるはずもない。
原子爆弾が投下された理由
トルーマンは決断できなかった
さて、ロシア報道官が「原子爆弾が投下された理由」などという大層なことを言っているので、そこにもちょっと触れておこう。
アメリカは第二次世界大戦中(ここでは、ヨーロッパ戦線の事を含めた話という事を意図している)に、マンハッタン計画を立案した。日本やドイツが原子力爆弾の理論を研究していたことに焦りを感じたアメリカが、先に兵器を完成させるべく科学者、技術者を総動員した計画である。
この計画は成功して、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施。トリニティ実験と呼ばれるこの実験は、アメリカ・ニューメキシコ州ソコロの南東48 km(北緯33.675度、西経106.475度)の地点で秘密裏に行われた。
マンハッタン計画はトップシークレットであったため、アメリカ大統領にも実験の経過など十分な情報は伝えられていなかった。トリニティ実験の10日後に、レポートが届けられるまではハリー・S・トルーマン大統領はその成果を把握していなかった。
また、フランクレポートと呼ばれる無人地域でのデモンストレーション案(実際の都市に投下するのではなく、威力を知らしめるための実験を行い威嚇する目的で使用する案)が実験前の6月に提出されているがこの案は暫定委員会で否決されて採用されなかった。更に、別の科学者達からの原子爆弾の使用反対の請願書も7月17日に提出されたが、マンハッタン計画の指揮官であるグローヴス陸軍少将が請願書を手元に置き、大統領に届かないように妨害したために、原爆投下前に届くことはなかった。そして、原爆投下の指示をトルーマンが出した記録も見つかっていない。
どうやら、グローヴズ陸軍少将は投下の投下の2年以上前から、投下場所を検討していた(議事録が残っている)らしく、1945年4月27日には原爆を日本のどこに投下するか話し合う、『目標検討委員会』が開かれていた。一方のトルーマン大統領は最後まで原爆を都市に投下することに反対しており、グローブスが起草した原爆投下指令書が発令されたのは、1945年7月25日のこと。ポツダム宣言の通告の前日のことである。
そうすると、米兵の命を守るために早期戦争終結を願って原子力爆弾を使ったというシナリオはかなり怪しくなる。
異なる2タイプの原子力爆弾から導かれる答え
また、使った原子力爆弾が異なるタイプだったということも問題となる。
広島に投下されたのはリトルボーイと呼ばれるウラン型の原子力爆弾で、長崎に投下されたのはファットマンと呼ばれるプルトニウム型の原子力爆弾である。
マンハッタン計画で最初に製造された原子力爆弾は3つ。1つがトリニティ実験で使われた「ガジェット」(インプロージョン型プルトニウム原子爆弾)、残りの二つが「ファットマン」(インプロージョン型プルトニウム原子力爆弾)と「リトルボーイ」(ガンバレル型ウラン原子力爆弾)である。
実は、ガンバレル型の原子力爆弾は、理論構造が単純であるとはいえ、取り扱いや安全性に疑問があって、開発責任者だったオッペンハイマーはセグレの最終調査を検査し、ガンタイプのプルトニウム原爆”シンマン”の開発を1944年に放棄している。
ガンバレル型ウラン原子力爆弾は、実証実験なしで最初の原爆投下に使われたのである。そして、以降のアメリカの核兵器開発において、ガンバレル型は開発中止になっている。
導かれる結論は単純なのだが、控えめに言ってもクソだな。
多くの日本人の命を奪ったシベリア抑留(拉致事件)
いい加減長くなってきたので、短く行きたいが、腹に据えかねる話なので、ついつい…。
これは流血を終わらせる決定的な貢献となり、日本列島に住む何百万人もの一般市民を含む多くの人々の命を救った。
J-CASTニュースより
ロシア報道官は開戦理由についてこんなふざけたことを言っているが、戦後、57万5千人以上もの日本軍や民間人がソ連軍によって拉致され、シベリアで苛烈な労働を強要されている事実を知っててそれを口にできるとしたら、相当の阿呆だ。
当然ながらこれは人道に反する罪でもあるし、何より民間人を捕虜としてはいけないという国際法上の問題もあるし、ポツダム宣言に反するものでもある。
そして、このシベリア抑留(実態は拉致)によって、約5万8千人の日本人が命を落としている。
赤軍は日本の軍国主義者を打ち破り、その支配を終わらせた
J-CASTニュースより
そもそも、シベリア送りはスターリンの得意技じゃねーか!自国の民ですら、白海・バルト海強制労働収容所で初期に10年間で3万人も殺しているし、ポーランド侵攻(1939年~)後は各国人捕虜は389万9397人に上り、1949年1月の時点でうち56万9115人が死亡。大戦果だな!
……申し訳ないが、これ以上突っ込む気力は失せたので、この辺りで止めておく。最初の一文だけでなく、後半も酷いのだが、どこからどう突っ込んだらいいか分からないレベルだからだ。
ロシア軍のウクライナ侵攻における蛮行を見ても、ロシアこそが反省して国を解体すべきだろう。
コメント
ふむ。ではロシア人に問いたい!
カチンの森でポーランド人軍将校の千名(大雑把な推定)を殺害したのは、
「戦争の早期終結の為だったのか??」
少なくとも現在のロシア政府は20世紀中に「ソ連がやった!」と認めてますね。
あれは戦争早期終結の為だったのか??
ポーランド侵攻をやらかした時点で、ロシアの説得力はゼロですよ。
2月にはこんなふざけた事も言っていましたしね。
https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-russia-medvedev-idJPKBN2UY0T2
ポーランドはやる気です。
米軍は九州と房総に上陸して、さらに複数の原爆を投下する予定でしたよ。コロネット作戦とか言ってましたかね。
それと東京を狙った第3の原爆があったらしい筋は、実は埼玉にある通信傍受施設に勤務していた中野学校卒業生が、昭和に語ってます。実際、戦闘機を連れたB29が、大島上空を日本の降伏の伝達の3日前に通過してるのが、軍人と民間人が目撃してます。通信はその直前に傍受されたもので、その数時間前に、基地名を失念しましたが、原爆を(米国は分解状態で核物質を装填してなかったと言うてる)配置していた基地からの、尋常でない通信を日本軍は傍受している。
やつらが東京に落とす気だった可能性は否定できない。証拠はGHQに接収破棄されていますが。中野学校卒業生の通信での暗号解読係が、メモを秘匿して残していた。終わらす為に……嘘をつけ!
なお、コレはあくまで私が聞いた噂、都市伝説的な範囲を超えませんが。
伊豆諸島を通過して東京方面へ向かおうとしていたB29ですが、米国はもちろん存在を否定してます。それは実在していたならば、何処へ何故に消えたのか?
フライト中に帰還命令が出たが、房総上陸作戦で万単位の戦死を想定されている事に反発した搭乗員が、「続行」の反乱を起こし(帰還拒否)、護衛戦闘機に撃墜された……という説がある。
これは浦賀水道に近い海豹島の沖、水深
80㍍ほどの海域を、終戦直後に米軍が探査しており(これは事実)、その時に米軍が述べた理由が、「沈没した徳川幕府軍艦に積まれた徳川埋蔵金を探した」というお笑いな発表なんです。よりによって徳川埋蔵金かよ!🤣と。
んで、この話は戦史と関係なく、私が三浦半島で埋蔵金探し(徳川埋蔵金ではありません)している時に、現地の古老から聞いた話です。彼の父が水先案内人で、しつこく尋問された。しかし、横須賀には多数の日本人の潜水士がいたにも関わらず、捜索海域は一時的に封鎖され、しかも「夜間」に危険な潜水探索を行っていたと。他にも色々とあるのですが、話としては繋がる。
「昔はよかった」と旧ソ連時代へ回帰していくプ政権の復古主義の顕れでしょう。
対日戦勝日の制定やシベリア抑留の肯定は、ひたすら旧ソ連時代の栄光を求める歴史修正主義ですね。(いや、ご都合主義か?)
あの国はもうソ連なのでしょう。いずれ3度目の革命もありそうです。
こんにちは。
占守島の英霊に申し訳がありませんね、こんな世迷い言を言わせておいては。
本当に、どうにかして一度〆ないといけない。
けど、岸田じゃなぁ……
あと、経団連とか金の亡者どもも同罪でしばきたい。露助やシナチクになびきやがって……