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名古屋地裁のおかしな法理

社会
この記事は約17分で読めます。

うーん、政治の臭いがする判決だ。LGBT絡みの騒ぎの文脈で、同性婚について言及されることが多いので、少し気になっていた。日本各地で同性婚に関して判決がでているのだが、名古屋地裁の出した判決がねぇ。

同性婚不受理は違憲 名古屋地裁判決 法の下の平等・婚姻の自由に違反

2023/5/30 14:30(最終更新 5/30 18:59)

同性婚を認めていない現行制度は憲法に反するとして、婚姻届が受理されなかった男性カップルが国に損害賠償を求めた訴訟の判決で、名古屋地裁(西村修裁判長)は30日、「法の下の平等」を定めた憲法14条と「婚姻の自由」を定めた24条に違反すると判断した。一方で、国会が立法措置を怠ったとまでは言えないとして、賠償請求は棄却した。

毎日新聞より

毎日新聞は、あっさりした記事を出した。が、この判断が妥当かどうかという点に関して説明してくれるメディアがない。

ネットでは、誰か解説していないかな?という風に思って探してみたら、ハフィントンポストが判決文を全文引用していたのが見つかった程度であった。これは、自分で読むしかないか?

せっかくなのでちょっと言及していこう。いつもと違うテイストの記事もたまには良いかな。

判決文を読もう

主文に結論が書かれる

まず、最初に理解しておかねばならない部分は、主文の内容である。

【主文】

1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。

ハフィントンポストより

原告である男性カップルが、「法律上の性別が同じ者同士の結婚が認められないのは憲法違反だ」という訴えをしたところ、原告敗訴の判断をしたのが本裁判の内容であったようだ。

すなわち「同性婚が認められないのは憲法違反では無い」ということなのだ。あれ?主文の内容と冒頭の記事の印象が随分違うんだけどどういうこと??

【争点】

1 本件諸規定が憲法24条及び14条1項に違反するか(争点1)
2 本件諸規定を改廃しないことが国家賠償法上違法であるか(争点2)
3 原告らに生じた損害とその額(争点3)

ハフィントンポストより

で、裁判では何を争っていたのか?について調べて見ると、なるほど、国家賠償法上違法だから、賠償請求をしたら、賠償する責任は認められないといって棄却されたのか。いわゆる、一部容認判決というヤツである。活動家的には大勝利なんだろう。

判決骨子

では何故、憲法違反だという話が出てきてしまっているのかといえば、争点1の内容について、裁判所が違憲性を認めたという事のようだ。

次に判決骨子を読んでみよう。

【判決骨子】

1 同性カップルの婚姻を認める規定を設けていない民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定(以下「本件諸規定」という。)は、憲法24条1項に違反しない。

2 本件諸規定が、異性カップルに対してのみ現行の法律婚制度を設けて、 その範囲を限定し、同性カップルに対しては、その関係を国の制度として公証することなく、その関係を保護するのにふさわしい効果を付与するための枠組みすら与えていないことは、国会の立法裁量の範囲を超えるものとみざるを得ず、その限度で、憲法24条2項、14条1項に違反する。

3 本件諸規定を改廃していないことが、国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるものではない。

ハフィントンポストより

何を言っているんだコイツは

骨子を読んでもさっぱり分からないぞ。

とはいえ、裁判官の論理構成というのは、判決文を読んでいくと概ね理解出来ていくものである。実際、理論構成を追っていく上ではなかなか面白い読み物だとは思う。ただ、長いんだよね、文章が。まあ、お暇な方はお付き合い願いたい。

判決文の論理構成

扱っている憲法条文

そんなわけでポイントを掴みながら名古屋地裁が何を判じたのかを読んでいこうと思う。

最初に、関連する憲法の条文を引用しておこう。引用する条文は3つ。

第十四条

  1. すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

(以下略)

第二十四条

  1. 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
  2. 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

第十三条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

判決では触れられていないが、婚姻の定義について言及されるときに問題とされるのは憲法13条の規定である。いわゆる幸福追求権に定められた条文で、「公共の福祉に反しない限り」最大限に国民の自由と幸福追求を行う権利があると規定されている。

つまり、同性間で婚姻したいと考えたときには、「公共の福祉に反しない限りは、立法その他の国政の上で最大限尊重されるべきだ」と、そのような文脈で理解されるのである。

しかしその上で、憲法14条では、婚姻の定義について「両性の合意のみに基いて成立」とある。これが日本において、男女間でしか婚姻が成立しないという風に理解される理由である。

そして、この定義を憲法14条に置いたことで、本邦において「婚姻」とは法的には「両性の合意のみに基づいて成立する」ものだと、そう理解せねばならない。

基本なので覚えておこう。

名古屋地裁のロジック

では、名古屋地裁の判決の要旨なのだが、以下のような流れで書かれている。

  • 憲法24条1項に違反するか → 文言上は違反しない → 社会情勢の変化を鑑みても、同性間に対して現行の法律婚制度を及ぼすことを要請するには至っていない。
  • 憲法24条2項に違反するか → 1項同様に違反しないと解するのが整合的 
    • 2項は家族についても「個人の尊厳と両性の本質的平等」に立脚した立法を要請している
    • 婚姻及び家族に関する法制度は、多様化に対応していない
    • 諸外国でも同性婚が認められつつある
    • 社会情勢を鑑みても同性婚に対して何ら法律的手当てがなされていないのは不合理
    • 日本でも同性カップルに法的利益を与えるべき
  • 憲法14条1項に違反するか → 国会の立法裁量の範囲を超えていて、24条2項に違反するから14条1項にも違反する
  • 国家賠償法上違法か → 同性婚は少数の要請だから立法措置を怠っていたとまでは言えない → だから違法じゃない

興味深い論理構成だけど、どうなのかなぁ?この判断は。

24条1項について

まあ、各論を見ていこう。

24条1項についてだが、「両性の合意のみ」「夫婦が同等の権利を有する」の部分より、婚姻は異性間で成立することを前提として立法されたというように解釈されている。

憲法24条1項は、婚姻は、「両性」の合意のみに基づいて成立すると規定し、婚姻した当事者を「夫婦」と呼称するなど、男性と女性の双方を表すのが通常の語義である文言を用いている。

人類は、男女の結合関係を営み、種の保存を図ってきたところ、婚姻制度は、この関係を規範によって統制するために生まれたものであり、伝統的には、正当な男女の結合関係を承認するために存在するものと捉えられてきた。

我が国では、明治民法において、婚姻とは終生の共同生活を目的とする一男一女の法律的結合関係をいうもので、同性間の婚姻は当然に無効であるとされており、憲法24条の起草過程においても、同性間の結合が婚姻に含まれるかについての議論がなされた形跡は見当たらず、草案の文言においても「男女両性」、 「男女相互ノ」といった文言が用いられていた。

したがって、憲法制定当時において、同条1項の趣旨に照らして、同性間に対して法律婚制度を及ぼすことが要請されていたとは解し難い。

ハフィントンポストより

ここで注目すべきなのは、「両性の合意」という文言について、同性間のことは考慮していなかったという解釈をしている点である。同性婚は排除していない、と読んでいるのだ。

しかしながら、そうであれば、草案の文言に「男女両性」「男女相互ノ」という下りがチョイスされるのはおかしいのである。少なくとも憲法立案時には、同性間に法律婚制度を及ぼすことを排除する意図があったと読むべきだ。

何故、日本において同性婚は排除されたのか

個人的な解釈ではあるが、この部分、GHQが草案に関わったことからも、キリスト教の倫理観が影響していると考えるべきである。何故ならば、大日本帝国憲法には婚姻に関する規定がなく、旧民法第750条にその規定が置かれていた。

それによれば「家族が婚姻又は養子縁組を為すには戸主の同意を得ることを要す」とされ、「男女で婚姻しろ」とは書かれていない。ただし、772条に「子が婚姻を為すには其家に在る父母の同意を得ることを要す。但し男が満30年女が満25年に達したる後は此の限りに在らず」と規定されていて、男女間での婚姻が前提であったことは伺える規定になってはいる。

実は、江戸時代までは同性間性交渉は容認されていて、明治期に西欧の知識を取り入れ始めてから、同性愛者を罪悪視する価値観を輸入し、1872年に同性間性交渉禁止条例なるものが作られるに至っている。尤も此の法律は廃止されたので、同性愛を犯罪として扱うということは、日本では行われてこなかった。

ただし、同性愛がタブー視される空気はあったようで。

ここで面白いと思ったのは、江戸時代までは同性愛や同性間性交渉は容認されていても、婚姻に発展するケースはなかった。世間に公表する必要はなく、同棲して事実婚として扱って貰えればそれで良かったということのようだ。

事実婚の認定が、現代日本にも残っている理由は、そうした歴史的経緯があり、現代の裁判所も事実婚に関しては同性間での事実婚を容認している。

そして、大日本帝国憲法では婚姻についての定めをおかずに民法でそれを扱っていた。日本において、個人同士の婚姻というのはさほど重視されずに、家を守るという文脈で婚姻が許可されてきたということになる。

つまり、日本国憲法において「家族」という概念が西洋のそれとは大きく違うことから、家長制度を廃止して個人主義に移行させようというGHQの思惑があったものと理解できる。

家長制度で家に他家の血を入れるというシステムであるのならば、異性間の婚姻以外は「好きにしなさい」ということになる。それも家長の判断なのだ。

そうすると、憲法草案において、異性間での法律婚制度の適用にのみに法的なインセンティブを与えようとしていたことは明白だと解する方が自然である。

確かに、憲法制定過程の帝国議会における審議などを見ると、憲法24条の主眼は、明治民法下の家制度を改め、戸主同意権を廃するなど、婚姻を含む家族生活について民主主義の基本原理である個人の尊厳と両性の本質的平等の原則を特に定めたところにあったと解され、同条が同性間に法律婚制度を及ぼすことを禁止しているとは解されない。

ハフィントンポストより

確かに、民主主義の基本原理が個人の価値の尊重というところにあるという理解ではあるが、GHQが草案に首を突っ込んて来た時に、欧米の価値観を草案に組み込もうとしたところ、時代背景的に同性婚はむしろ忌避される価値観であったことに鑑みれば、積極的に排除する意図があったと考えるべきではないか。

24条2項について

名古屋地裁の1項の解釈に意義はあるが、しかし結論は違反ではないというところに落ち着いている。では2項はどうなのか。

文言的には1項の解釈に従うべきだとしつつ、しかし、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」の部分を同性カップルにも援用すべきだとして、「同性カップルの関係性について、家族の問題として検討することは十分に可能なはずである」と結論している。

しかしこの読み方は正しいのだろうか。

2項の規定が「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」とされていて、24条1項の定義に鑑みて理解するのであれば、ここに記載の「婚姻」とは異性間のみ成立しうる法律婚制度の適用を意味していると読むべきである。

その上で、そうした事に対して立法する場合には、「両性の本質的平等」を考慮しろと言っているのである。そうすると、夫婦間で差をつけるなという風に理解すべきところである。

それこそ、同性カップルを予定していないのだ。

しかし、名古屋地裁はこんな風に解釈している。

現行の法律婚制度を利用できることが重大な法的利益であることは疑いの余地がないが、同性カップルは、自然生殖の可能性が存しないという点を除けば、異性カップルと何ら異なるところはなく、性的指向及び性自認は、医学心理学上、人生の初期又は出生前に決定されており、自らの意思や精神医学的な療法によって変更されるものではないとされているにもかかわらず、これを享受できない状態に陥っており、同性カップルと異性カップルとの間に、著しい乖離が生じている。

ハフィントンポストより

しかし、日本国憲法には家族に関する規定はなく、両性の婚姻に基づいて形成される社会の最小単位であるという風に理解するのが相当ではないだろうか。そうすると、同性カップルが家族を形成するという事は、それこそ憲法に予定されていないと理解すべきだろう。

名古屋地裁の判断では、同性カップルでも家族を形成し得るという論理から、憲法の条文を読もうとしているが、しかしそれは自己矛盾ではないだろうか。

「憲法24条2項は、同条1項を前提として、法律による婚姻制度の具体化を国会に要請し、指針を示す規定と解されるから、同条2項も、同条1項と同様に、現行の法律婚制度を同性間に対して及ぼすことを要請していないと解するのが整合的であり」と自分で言及しているにもかかわらず、24条2項の家族の文言には、同性カップルへの適用を試みているのである。

つまり、24条2項は婚姻にまつわる法整備について規定しているのだから、24条1項で予定されない同性間の婚姻というのは、当然ここで読むべきでは無く、つまり、24条2項違反というのは著しく失当で言わざるを得ない。

国際社会の要請

名古屋地裁によると、24条2項の解釈には国際社会の情勢を鑑み、そうした要請があるからこそ同性カップルに対しても異性カップルと同等の権利付与が必要であると論じている。

こうしてみると、家族の形態として、男女の結合関係を中核とした伝統的な家族観は唯一絶対のものであるというわけではなくなり、同性愛を精神的病理であるとする知見が否定されるに至った状況で、世界規模で同性カップルを保護するための具体的な制度化が実現してきているし、わが国でも同性カップルに対する理解が進み、これを承認しようとする傾向が加速している。そうすると、現行の家族に関する法制度における法律婚制度はそれ単体としては合理性があるように見えたとしても、その享有主体の範囲が狭きに失する疑いが生じてきており、同性愛者を法律婚制度の利用から排除することで、大きな格差を生じさせ、何ら手当てがなされていないことについて合理性が揺らいできているといわざるを得ず、もはや無視できない状況に至っている。

ハフィントンポストより

欧米では同性カップルの保護に動き出しているようだが、しかし、世界規模で本当にそうした流れがあるのか?というとそうではないのだ。

EMA日本より

ふーん、世界で、ねぇ。

こんな感じの状況なんだけど、世界でねぇ。これ、「オウベイガー」というイツモノヤツなんだけども、文化の違いなどを考慮する必要は当然あるし、何が何でも真似ていく必要性というのはもちろんない。

少なくとも、家族に関する法制度における法律婚制度の「合理性が揺らいでいる」というのは主観に過ぎない話だということは分かって頂けると思う。

現代日本における同性婚をどう考えるべきか

家長制度から、家族という最小単位で物事を考えるようになって70年余り、日本における家族のあり方も随分変容してきた。

それは戦後ドラスティックに変容したのでは無く、歴史と共に少しずつ変わってきたのである。

事ここにおいて、外国の考え方に右に習えをするのは、家長制度から家族制度に切り替わったからこそ、ある程度は仕方がないのであって、諸外国において同性婚が認められるというのであれば、日本国内においてもその考え方を整備する必要はあるという思想は、一定の理が在ると思われ、少なくとも同性カップルが外国から家族として入ってきた場合に、それに当てはまる枠組みを用意する必然性はあると言える。

一方で、日本人の歴史観からして同性間の性交渉や恋愛事態は別に忌避感が強いわけではなく、今でもサブカルチャー的な分野で同性恋愛を扱う向きは強い。

そうであるならば、ここで考えるべきは「同性での婚姻を認める必然性」が在るのかどうかということで、婚姻と類似の仕組みを同性間であっても適用するということを許容するかという話に帰結する。

異性カップルと同性カップルを「平等に扱おう」という事は、本当に必要なことなのかは今一度考える必要がある。もちろん、個人の人権を尊重するのは勿論のことであるが、異性カップルと同性カップルは在り方として異なると僕は考えている。

現行の法律婚制度を利用できることが重大な法的利益であることは疑いの余地がないが、同性カップルは、自然生殖の可能性が存しないという点を除けば、異性カップルと何ら異なるところはなく、性的指向及び性自認は、医学心理学上、人生の初期又は出生前に決定されており、自らの意思や精神医学的な療法によって変更されるものではないとされているにもかかわらず、これを享受できない状態に陥っており、同性カップルと異性カップルとの間に、著しい乖離が生じている。

ハフィントンポストより

自然生殖の可能性が存しないという1点があれば、別の取り扱いをするというのは何ら差別には当たらないと、そのように思われるのだ。LGBTの議論もそうだが、「男女間の取り扱いを一緒にすること」と、「平等な取り扱いをすること」は別であるということを、多くの人はすっ飛ばしてしまう。

生物学的に別の肉体を持つのだから、「平等」にするためには寧ろある程度下駄をはかせるべきではないか。

これは有名なイラストなのだが。

こういう事なんじゃないかなぁ?

14条1項について

さて、翻って14条1項の規定であるが、性別による差別があってはならないと規定されるところ、男性同士の婚姻も女性同士の婚姻も否定されていることから考えても、同性間に法律婚制度を適用することは失当であるように思われる。

本件諸規定は、異性愛者であっても同性愛者であっても異性と婚姻することができるという意味で別異取扱いはなされていないが、性的指向が向き合う者同士の婚姻をもって初めて本質を伴った婚姻といえるのであるから、同性愛者にとって同性との婚姻が認められないということは、婚姻が認められないのと同義であって、性的指向により別異取扱いがなされていることに他ならない。

ハフィントンポストより

何やら、LGBTの概念を持ち込んで論じているのだが、憲法も民放も、医学的に性同一性乖離という方であるのなら、戸籍上の性別を変えることで婚姻という状態に至ることは禁止をしていない。

しかし、性的指向となると、これはまだ世界的にも議論が生煮えの部分があって、性自認という第三者からは確認し得ない、自称だけで存在が確認されている部分に、果たして法律婚制度を及ぼして良いのだろうか?という部分に疑念を禁じ得ない。

事実婚という事が許されているのだから、寧ろ、相続などの手続き面でのフォローでカバーするという運用での対応ではだめなのだろうか。

と、少し議論が逸れたが、結局のところ、24条1項の「婚姻」の規定は「両性の合意のみ」によって成立するとある以上は、法の下の平等を定めた14条1項の規定に関する「性別」による差別がないという文言は、矛盾しないと読む必要がある。

法律の解釈において、同じ法律内に書いてあることは矛盾しないように理解しなければならないというのが原則なので、14条1項の「性別」による差別の禁止は、24条1項の「両性の合意のみによって成立する婚姻」と矛盾してはいけない。つまり、同性婚を禁止していたとしてもこれは14条1項違反とはならないのである。

さらに言えば、このような規定は13条の幸福追求権にも抵触しないと読まねばならない。

民法に手を突っ込む話

さてと、そういうわけで、僕の結論的には憲法解釈的に民法などの規定が憲法違反であると判じることは失当であったことそのように理解した。このことについて賛同頂ける方もしていただけない方もいるとは思う。

中程で言及したように、「同性での恋愛を許容する」のと「同性間での法律婚制度の適用を許容する」のとは随分と話が異なる。少なくともの同性での恋愛について法律は何も禁じていないのだから、そこは自由にやっていただいて宜しい。

しかしながら、同性婚となるとこれは憲法改正をするか、婚姻とは別のそれに類する制度を創設して同性カップルにも適用できるようにすべきであろうと、そのように結論付けるべきだろう。

そういう意味で、名古屋地裁の法理は歪んだ裁判官が己が目立つためだけの判決であったように思う訳である。

結局の所、同性カップルの場合には、パートナーが入院したときに付き添いが出来なかったり、相続が出来なかったり、行政手続き的に問題があったり、という事に不満があるそうなので、そこを解決できればかなりの人々の不満が解消されるだろうと思うのだ。

そこをカバーできるようなカップル認定の手続きについては、東京都などが条例を設置して対応しているようなんだけど、そういった公的認定制度さえあれば、同性婚云々という話まで突っ込んでいく必要は無いのだろうと思う。

同性カップルを否定するつもりは無いのだが、もし彼ら、彼女らが家族を形成するとするならば、その家族たちにも大きな影響を与えるだろうことは容易に想像がつく。それを、「自然生殖の可能性が存しないという1点」しか違いがないと言い切れるものなのだろうか。もちろん、同性カップルの下で幸せに育つ子供たちもいるのだろうとは思うし、異性カップルだから立派な子育てができるなどともいうつもりはない。でも、有史以来、程度の差こそあれ、異性カップルによって家族が形成されてきた例が大多数であったことを考えると、より慎重にならざるを得ないとは思うんだよね。

コメント

  1. アバター タロウ より:

    日本という国は察して見守る寛容さでマイノリティを受け入れていたはずだが…。
    ディベートで決着させたり、明文化しようとするから変なことになってきている。
    これを推し進めるとウポポイみたいになるのではないかね。

    • 木霊 木霊 より:

      アイヌを先住民として認定したのは、失策だったと思います。
      ああいったことをすると、なかなか撤回が難しい。
      LGBT法案も、同性婚も、似たような話ですよ。

  2. アバター BOOK より:

    木霊さま 皆様 こんばんは

    >1 原告らの請求をいずれも棄却する。
    >2 訴訟費用は原告らの負担とする。

    どっからどう見ても原告敗訴だし、おかしいのは「報道」の方ですよね。地裁の細かい法理解釈文言はマスゴミ・活動家が煩いから書いただけで、おそらく同性婚違法の法律があれば、そっちを支持したんとちゃうん?

    なんでって?

    「婚姻」に関する法律類はGHQの横ヤリで「家・存続」から「夫婦の権利」的に書き換えられてるけど、大元の発想は結局「相続」に関する法律で、どの国でも過去には社会的地位等も相続の範囲だったけど今は個人財産のみになったと言うだけ。
     すなわちこれは「人権」に関する法律ではないはず!

     同性婚の問題の根本は、実子は残せないので養子縁組に関する規定
    &場合によっては法人格の法概念から組み入れるべきではないかな?

    活動家が利権にしようと人権概念で騒ぐからハナシが正常な方向に進まない。

    法律制定のための議論は必要。名古屋地裁は表現歪んでるけど、これを言いたかったのでは?
    (本来、司法じゃなく立法の仕事だろ! て感じ)

    • 木霊 木霊 より:

      ご指摘の通りでありまして、時代に合わせた議論をしろというのが名古屋地裁のメッセージではあります。
      歪んだ政治判断というのは、注目を集めるために下した違憲判断です。本来であれば、違憲では無いという判断を下すべき所(東京地裁は似た流れで合憲判断を出しました)、ニュースとして注目されるが為に「違憲である」という判断を出したのです。
      判決に関わる部分はかなり厳しいのですが、判決における論理構成の部分は比較的裁判官の裁量の及ぶところです。
      地裁レベルでは、コレを悪用して暴論と思われるような論理構成を採用することがあります。そして、原告敗訴にした理由は控訴しやすくするため、という配慮もあります。裁判官が目立つために暴論を振りかざす。それによって裁判官の世界では一目置かれるという感じになります。これが退官間近の裁判官だと更に過激になる傾向にありますね。

  3. アバター みみこ より:

    そういえば経団連はLGBT(Q?)法に賛成でしたね。
    つまり同性婚も異性婚と同等に扱うべきだと思っているわけで。
    法律の改正は大変(まして憲法は)だけど「社則の改正」は簡単なので、
    まだ配偶者手当がある大企業は、是非、「事実婚の実績がある同性婚」にも配偶者手当を支給してほしいですね。
    最初に実施すればマスコミが大宣伝してくれて、きっと優秀なLGBTが押し寄せてくれますし、「社会を変革する一助」になって、「LGBT理解増進」にとっても貢献できますよ。

    • 木霊 木霊 より:

      経団連は一体何を考えているんでしょうね。
      世界のLGBTが日本に「難民」として押し寄せる地獄絵図というのは、あまり思い描きたく在りませんが。
      自分たちは無関係と思っているんでしょうかね。

  4. アバター U より:
    • 木霊 木霊 より:

      唐突にリンクだけ紹介いただいても困りますが、紹介いただいたサイトは一読させていただきました。
      学者肌の方が書かれた文章のように見受けられますが、名古屋地裁の判決は日本国憲法及びその下に形成される各種法律に基づいて判断をするのが仕事であります。しかし法律というのはすべての事象を書き込めないので、社会通念上の価値観を踏まえた法解釈が必要なのであり、そうした部分を判断するのが裁判官なのであるという構図になっていると理解しております。

      そうしてみると、紹介いただいたサイトの分析(東京地裁の判決)は面白いとは思いますが、些か道を外れた議論であるように思われます。
      一方、議論の流れは弊サイトに似た部分もあり、また参考になる部分も多々ありという感じでした。婚姻は恋愛・性愛を前提としていないという部分には納得する部分であります。

      ただ、如何せん読みにくい。弊サイトの乱文もけっして読みやすいとは胸を張ることが出来ませんが、知りうる知識を全て整理して詰め込もうという同サイトの内容は、資料性はあっても一連の文章として読むには無理があるように思われました。
      紹介いただき感謝いたします。が、何を意図してリンクいただいたのかも含めてコメントいただけると助かります。

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