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【第1回】変わる時代区分、弥生時代の始めと終わり

歴史ロマン
この記事は約12分で読めます。

さて、一部の方に好評だった歴史シリーズである。

前回シリーズでは水田稲作伝来を軸に縄文時代の話をしたわけだが、調子に乗った僕は続いて弥生時代に手をつけてしまった。縄文時代を調べていて、思った以上に血なまぐさい時代だと感じたんだよね。イメージと違う!と。

まあ、時間のある時に暇つぶし感覚で眺めてください。

で、第1回は時代区分について。前回シリーズを読んでからタイトルを見れば、第1回の内容は大体想像はつくと思うけれど、縄文時代と水田稲作の伝播が弥生時代の時代設定にも影響を与えてしまった、そんな話である。

さて、冒頭に引用するのは前回シリーズに関わる話。

日本人起源の認識が根本的に変わりそうな「三重構造説」理化学研究所など発表 進むヒトゲノム研究、弥生時代は前後期あった?

2024.5/18 10:00

日本人の起源について、従来の「縄文人・弥生人の二重構造説」に代わって、「三重構造説」が流行っている。

ZakZakより

縄文時代シリーズを書いている時に出してくれると嬉しかった記事だが、最近見つけた記事にこんな話があった。

  • 日本人は絶滅の危機を迎える
  • 弥生時代はいつから?
  • ヤマト時代との関係

時代区分の見直し:弥生時代の開始時期

絶滅の危機を迎えた日本人

さて、縄文時代の末期に日本人は一度絶滅の危機を迎えていた。おっと、最初の内容は前シリーズと結構重複してしまうのだが、ご容赦願いたい。

そうそう、あと、弥生時代は紀元を跨ぐ時代なのだけれど、前か後かをはっきりさせたい。そこで、少々煩い表記になるが、「紀元前」と「紀元後」という表記で統一することにしている。

縄文時代は1万6000年前あたりに始まったが、旧石器時代の日本人と同じかは不明だ。全盛期に30万人ほどだが、末期には数万人に減っていた。

そこに3000年前ごろ、満州の西遼河地方にいた民族が朝鮮半島や日本列島に南下した。この前期弥生人たちが日本語をもたらしたことがゲノム分析から明らかになった。日本語が、韓国・モンゴルなど広い意味でのアルタイ語系の文法を持つ謎が解ける。

ZakZakより

前回のシリーズで触れたように、朝鮮半島は何度も絶滅の危機を迎えて空白の時代を迎えていたが、日本人も縄文時代の終わりに人口が激減している。一歩間違えば絶滅していた可能性すらあった。

若干復習することになるが、歴史上、縄文海進と呼ばれる現象は縄文前期(紀元前5,000年頃)にあっただろうことは定説となっていて、今より海面が4~5m高くなったと言われている。この時期は日本列島が比較的温暖であったため、狩猟・採取生活を送るのに不都合は無かった。

さいたま市のサイトより

ところが、縄文晩期(紀元前1,000年頃)に入ると再び寒冷化し、一節には弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きたとされ、海産物の採取が難しくなった。この弥生海退の呼び方は一般的ではないらしいが、寒冷化は実際起こって狩猟も難しくなり、人口減少を迎えたとされる。海辺でも豊富な漁場が消えてしまって魚介類の確保が難しくなったようだ。実際に貝塚からこの時期にプッツリと人の気配が消えているところもあって、集落単位で人が居なくなったところもあるらしい。

この下りは前回もやったのだけれど、人口は縄文時代のピークで30万人弱、そこから8万人程度にまで人口が激減した。

縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している(提供・東京大学)

それが、弥生時代の開始時期(あるいは縄文時代晩期)とされる紀元前1,000年頃のことである。

水田稲作伝来の時期が変わる

そもそも弥生時代という時代区分は、一頃は土器の違いで縄文時代と区別する程度の意味合いであった。しかし、最近は稲作の始まった時代を弥生時代と定義するという話に変わってきたようである。

では、それはいつ頃なのか?

吉野ヶ里遺跡

これまでは九州に水田稲作が渡来してから東北地方に伝わるまでに約100年程で急速に広まったとされてきた(紀元前300年頃に稲作が伝来して、紀元前200年頃までに日本全国に広がったとする説)。

しかし、縄文時代シリーズで紹介したように、従来の定義が揺らぐ事件が起きてしまったのである。菜畑遺跡の発見(昭和54年)である。

この遺跡からは水田稲作の痕跡が発見され、その年代は紀元前930年から弥生時代中期(紀元前200年頃)までだということが分かった。つまり、弥生時代の開始が以前考えられていた紀元前300年頃から一気に630年も遡ってしまった。

渡来人の大量移住は本当か

これまでも、天候の影響で狩猟中心から稲作中心に生活様式が切り替わったと考えられていて、その時に大量の移民(渡来人)が日本に移り住んだと解釈されていた。つまり、急激に水田稲作が伝来するのにあわせて渡来人も日本国内を北上していったというわけだ。

実はこの説、紀元前300年頃に支那大陸が戦乱に包まれ、紀元前221年には秦の始皇帝が支那史上始めての統一王朝を建設したため、周辺諸国は滅ぼされ、戦乱を逃れた支那人達が日本列島に多数移住してきた、というシナリオに支えられていた。縄文人達は弥生人達(弥生系渡来人)に駆逐されてしまうという極端な説まであって、それ故縄文人は絶滅したのだという説すらあった。

ただし、現在ではDNA解析によって長らく縄文人と弥生人は共生関係にあり、混血が進んでいったことが分かっている。更に、縄文時代の終わりが遡ってしまったことで、秦王朝建設に伴い移住してきた説が破綻してしまう。稲作伝来の速度も、600年ほどかけてゆっくり広まったことになった。また、弥生時代開始以降に断続的に複数系統の渡来人がやって来て縄文人達との混血が進んだのはDNA解析からも事実らしいと判断されている。

なので、現在では人口増加の要因は移民が来たからではなく、食糧事情の改善に寄るところが大きかろうという事になっている。

Wikipedia「弥生人」より

長江文明の系譜(O1b2系列)の影響が強いだろうという話はそのままなんだけれども、それは侵略をうけて駆逐されたというシナリオではなく、渡来人を居住地区に招いて積極的に技術交流をしたのだろうというシナリオに変遷している。

序に、別の切り口で集計した場合のグラフも紹介しておく。

img

こちらの調査でも人口減少時期は紀元前1,000年頃で、凡そ8万人程度であったと計算されている。

現代のオーダーで考えると、日本の全人口は1億2千万人程度だが、最も人口が少ない県は鳥取県で55万人程度。京都府舞鶴市の人口が8万人程度だ。8万人が日本全国に点在している状況を考えると、日本人が絶滅寸前だったと言っても過言ではあるまい。

それが、急速に人口を増やして弥生時代には60万人ほどに膨れ上がる。

なお、こういった人口の増減の推計は、遺跡人口密度に基づいて計算する方法の他に、DNA解析によって計算する方法があるようで。DNA解析の方はY染色体に着目して家系図を作り、増減を予測する手法なので別アプローチなのだが、ほぼ同じ結果となっている。2つの異なるアプローチによって、人口減少の事実が示唆される以上は、この話は確からしいということになった。

だから、人口のオーダーが一桁変わるほどに激減し、軽く滅亡の危機を迎えたのが縄文時代末期の出来事で、そこから急激に人口が増えだす。弥生時代の開始はそんな時代だったのである。

時代区分の見直し:弥生時代の終了時期

ヤマト時代が始まる

さて、続いて弥生時代の話をしようと思ったが、先にその次にくるヤマト時代(一般的には古墳時代と呼ばれる)の話をしておきたい。

いわゆる古墳時代は紀元後4世紀頃から紀元後7世紀頃まで続くとされるが、従来の定義で行くと「古墳が作られた時代」ということだった。

だが、弥生時代中期の遺跡に方形周溝墓と呼ばれる形式の墓が見つかり、弥生墳丘墓と区別して呼ばれることとなった。こんな感じの四角い丘の周囲に溝が掘られるようなお墓の形式だったようだ。

服部遺跡のサイトより

弥生墳丘墓は大きいもので、一辺20m程度の長方形や方形の台状部を持ち、幅4m~5mの周溝をめぐらし、小さなものでは、一辺5m程度の台状部に幅1m程度の周溝をめぐらされていたそうな。基本は家族単位の埋葬が行われたようだが、有力者ほどデカく副葬品の有無などから身分の違いがあったとされている。

この形式の墓は、小規模のものがまとまって見つかったのだが、次第に大規模なものが単独で形成され大きくなっていったらしいことが分かった。地域性もあるが、この弥生墳丘墓(方形周溝墓ともいう)と古墳の境界はかなり曖昧なのでは?という意見が出されるに至る。

なぜなら、弥生時代の墳墓に前方後円形や双方中円形という後の古墳に繋がる形状のモノも発見され始めたからだ。

岡山県のサイト「楯築遺跡想像図」より

こちらは岡山県にある楯築墳丘墓(紀元後2世紀後半~3世紀前半)の想像図である。弥生時代末期のものではあるが、かなり前方後円墳の形状に近くなっている。

一方、日本最古の古墳といわれる箸墓古墳は前方後円墳の形状になっている。

いかす・なら「箸墓古墳」より

「古墳」としては分かり易く、紀元後300年頃に築造と考えられている。この前方後円墳こそが古墳というのであればこの頃が「古墳時代の始まり」と言えるかも知れない。

そうして、いつからが古墳時代なのか?という学者が出てきて、「古墳時代」と定義するのではなく、ヤマト王権が治世を行った時代区分を用いてヤマト時代とすべきであるとの主張が登場した。このブログでも弥生時代の次はヤマト時代である、という説を採用したい。理由は、後の回で出てくるが、中央集権的な国造りが出来始めた時代だったからである。

で、ヤマト時代の始まりは諸説あるが、概ね紀元後3世紀頃末か4世紀初めというところが一般的だとされていて、本ブログでは弥生時代は紀元後3世紀までという定義を採用したいと思う。

謎の人物「帥升」

そうそう、弥生時代の話として、帥升すいしょうと呼ばれた人物について少し言及しておきたい。弥生時代の人物としては卑弥呼ひみこなどの話をするのが一般的だとは思うのだが、この帥升、実は支那の歴史書(漢籍)に最初に名前の出てくる日本人なのである。

漢籍の中に「後漢書」と呼ばれる書物がある。支那後漢朝(紀元後25年~220年)に書かれた歴史書で、二十四史の1つでもある。本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる大作で、范曄はんようが編纂したとされている。

Wikipedia「後漢書」より

その中の一節に、「安帝永初元年 冬十月倭國遣使奉獻(本紀)安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(列伝)」という記載がある。「安帝の永初元年(紀元後107年)冬十月、倭国が使いを遣わして貢献した。(本紀)安帝の永初元年、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。(列伝)」という内容になっている。

興味深いのは、ここで「倭国」という国名が出たことと、「倭国の王である帥升が謁見を請うた」とある部分だ。「倭国の王」ということになっているので、少なくとも日本にあった有力国の大王であったことは間違いなさそうだ。つまり弥生時代後期の紀元後107年頃に、日本の王であった人物が後漢の6代皇帝「安帝」に朝貢をしたという内容となる。一国のトップだった帥升すいしょうが直接支那に渡ったというから、なかなかの大事である。そりゃ、名(正式な名は不明だが)が載るのも頷ける。

なお、「後漢書」には、「建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫たゆうと称した。(倭奴国は)倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜った」という下りがあって、「奴国」という地域が日本の南にあったことと、その使者が「大夫たゆう」と称したことが言及されている。「大夫たゆう」はおそらく役職名で、「魏志倭人伝」によれば、支那に渡ってくる使者の殆どが「大夫」を名乗ったのだとか。漢にも官職の中に「大夫」という役職はあったようだ。

なお、ここで倭国という名称は、支那の用いた僭称であると知られているが、この名称は「後漢書」より前に書かれた「漢書」にも登場する。

「漢書」では、倭人が定期的に漢王朝に朝貢していたことが言及されている。「楽浪郡の先の海の中に倭人がいて、百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来た、と言われている。(樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。)」この頃から、日本には政治集団が存在したことを意味している。年代は直接記されていないが、漢書自身は班固はんこによって紀元後54年から20年程かけて編纂されているので、その時期に見聞きした話だろう。

前述したように、帥升もまた弥生時代中期から後期にかけての人物であることが、支那の史書から分かっている。ここで面白い説があって、「後漢書」の更に後の書「翰苑」には、「後漢書」を引用して「倭面上國王帥升…」なる記載がある。また「通典」には「後漢書」を引用して「倭面土國王師升等…」なる記載がある。

これらの記載から、「後漢書」の原典にはこれに類する記述があったと推測され、正確には「倭面土國王師升」だったのではないかと。この「倭面土」なる記載、じつは「やまと」と読むのではないか?と。もちろん、別の解釈もあるのでこれが絶対正解というわけではないが、「帥升」はヤマトの国王だったという理解ができる。逆に言えば、それ以上のことは書いてないので、大した話は出来ないのだけれど。

ただこの説によれば、後に「倭国」となるのは、転記ミスが原因だったのではないかという話になっている。歴史書は原典を何度も複製して後世に伝えられている関係で、転記ミスもそれなりに出ている。よって、こうした解釈の余地が残っているのだね。

この説を採用すると、ヤマト時代は実は弥生時代後期(紀元後100年頃)まで遡ることになってちょっと面白い。

尤も、「魏志倭人伝」(正確には「三国志」中の「魏書」なのだが、分かり易く魏志倭人伝としておく)には「今使訳通ずる所三十国」との記載があり、紀元後300年頃には30カ国程度が小国分立の状態が続いていたとも解釈できるため、統一した王朝がなかったというのが通説である。故にヤマトが国号であったとは言えないのだが、ヤマト時代が前倒しになる可能性があるよという話にはなる。漢籍の話をやると迷宮入りしそうなので、ここでは触りだけにしておくが。

とまあ、こんな感じの時代設定で混乱はあるという紹介をしたのだが、弥生時代に卑弥呼が登場しないのも都合が悪いので、このブログでは以降、概ね弥生時代というのは、紀元前1,000年~紀元後300年頃まで(1,300年続いたこととなる)の稲作中心の文化が花開いた時期であるという認識で話を進めていきたい(雑)。

まとめ

区切りが良かったので第1回はこの辺りで終わりとしたいと思うが、全然、弥生時代の内容の説明に入れなかったところは大変心苦しく思う。

ただ、縄文時代と異なり、弥生時代の時代考証には支那の文献が使えるようになる。これがなかなか興味深い。

まあ、なにはともあれ、縄文シリーズに続く弥生シリーズである。そうそう、執筆には結構時間がかかってしまう傾向にあるので、気長にお待ち頂けたらと思う。

縄文シリーズ
第1回第2回第3回第4回第5回

前回のシリーズは5回で終わっているが、それを書くのに半月以上の時間を要している。今回シリーズは書き始めて既に1ヶ月、目標としては3回に分けて説明するくらいでいけると思うので、お付き合い願いたい。

コメント

  1. アバター 河太郎 より:

    ども。いや〜解り易い! 面白い!
    始皇帝の中華統一が紀元前221年ですから、紀元前930年頃の水耕跡が発見されれば、そりゃ秦により滅亡した国の遺民が弥生人であるという説は覆りますね。
    700年以上も遡るもの!
    実際はもっと遡るのでは?
    商つまり殷王朝の時に、殷は子安貝を貨幣に用いていたのですが、勢力拡大とともに通貨不足となり、山東半島の東夷を攻めたそうです。この時に東夷が朝鮮半島やその東へ逃散したと。それが弥生人のルーツなら、さらに数百年以上を遡る事になるかと。
    んで、人口激減ですが、木霊様の仰るように寒冷化と海退による食糧資源の確保が難しくなった。そこに何度かコメしました成人T細胞白血病ウイルス(現在は潜伏期間が半世紀だが、当時は強毒性かつ発症までが短い伝染病だったと思われる)が追い打ちをかけたのでは。
    そんなこんなを考えてゆくと、縄文文化のマザーボードの上に弥生文化が載ってる二重説よりも、三重説の方が信ぴょう性が高いと思うんですね。
    ヤマト時代の前期って、まんま三国志時代な訳で、後漢崩壊から三国鼎立にいたる30年ほどで中国の人口は1/10まで減ったと言われる。三国志の劉備や曹操が、
    異民族の兵を加えるのは、兵力や労働力が足らなかったからです。それらの中には朝鮮半島や日本に招かれる者もあったてせう。三国志の諸葛亮の兄が呉の重臣であったように、一族共同体(幇)の男子を各地に送り、それぞれ各地で植民や任官させて一族の存続を図るというのは
    中国にはよく見られる事です。
    そうした事から木霊様の記事は可能性が高い話をなさっていると思うす。

    • 木霊 木霊 より:

      悔やまれることに、この時代、まともな歴史書は殆どが漢籍頼りなのですが、支那において日本の立ち位置って、「化外の地」なので真剣に歴史に残すべき対象ではなかったんですよね。
      故に良く分からないというのが実情であります。
      逆に言えばその分だけ好き勝手に解釈できるという面白みもあるわけですが。

      いずれにせよ、本記事もシリーズの第1弾なので、宜しければお楽しみください。

  2. アバター 河太郎 より:

    前記事のコメに続くものなのですが、
    弥生文化には(弱いけど)動物の扱い(架空動物を含む)で?な部分がある。
    蛇ですね。日本では龍蛇が混同されていて、どちらも水神ですなぁ。
    で、蛇(カカ)が崇められるのは、まぁ蛇が害獣の鼠を喰ってくれるからなのですが。カカシ(案山子)は「カカ(蛇)子」で水田を護る蛇神にあると申すし。
    それは日本に「猫いなかった」からとされてきましたが、木霊様の提示された
    可愛い猫土偶でひっくり返りましたね!
    猫いたんですね実は。
    すると龍蛇はどっから来たのか?すが。
    おそらくインドのナーガ(大蛇神)が、
    仏教とともに運んできた気がする。
    仏教はソクド人が南北朝(中国の)の
    北魏へ運び、北魏の国教となった事で、
    華北を中心に朝鮮半島へ渡り、それが日本に来たと思うすが……。つまりシルクロードのオアシスルート経由なのですが。
    なんで乾燥地帯から北方へ非稲作民を通じて水神である龍神が伝わったか不思議に思うてたのですよ。
    んが、西遊記あるでないすか、あれの沙悟浄は河童とされてますが、どうも砂漠の龍や蛇の妖怪らしいんですね。玄奘が乗馬してる白馬は実は龍の化身だし。
    黄河の源流が崑崙山にあると長らく考えられていた為に、実は龍神(西洋のドラゴンと違い翼を持たずに空を飛ぶ。西洋のドラゴンに翼があるのは、中世に中国の龍の話がつたわって、それまでの大蛇モンスターから変わったため)は、
    西方の黄河源流を支配する河伯として伝来した可能性がある。空を飛ぶのは北方遊牧民らを経由しているからでは? 
    んで〜縄文後期にすでに稲作が開始されており、もともと蛇信仰のあった日本に仏教が来た時に、空つまり天候気象と関わりが深いという事で、仏教の神獣と習合されて、オロチと龍の区別がつかない水神になったと思うんですね。
    ちなみに西洋の竜はもともとは大蛇やヒュドラです。翼を持ったのはビザンチンに中国の伝承が伝わった為。翼は中世までは鷲の翼でした。それが大航海時代に
    中国陶磁器が西洋へ輸入され、中国は縁起物として蝙蝠を好みますから、こっちの方が格好よいじゃん!とドラゴンに蝙蝠の翼をつけるようになった。
    我々は龍や天女が翼を持たずに飛ぶから神通力として考えるが、ドラゴンにも天使にも「空飛ぶなら翼をつける」と考えるのが西洋です。水神のように龍が神の眷族と考えるのは、つまるところ「神の眷族(悪魔もその一つ)」いがいは神通力を認めないというキリスト教文化の結果なのでせうね。

    • 木霊 木霊 より:

      「蛇」ですか。
      民俗学の分野でも、蛇は象徴的な生き物ですよね。
      大抵は神の使いとか、力あるものとか、神聖な存在として登場しがちです。

      当初の予定ではその辺り触れるつもりはなかったのですが、神話の時代には「ヤマタノオロチ」が登場するわけで、時代背景的には弥生時代にも関連しているように思われますから、無視もできないかも知れません。

      龍蛇に関するご指摘はなかなか興味深いですが、やはり「水」は生命をはぐくむ上では非常に大切なファクターであり、それに纏わる神様ともなれば何処の世界でも崇められるのですよね。ちょっと考えてみたいと思います。