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【第2回】中央集権的な統治とは

歴史ロマン
この記事は約18分で読めます。

さて、第2回に扱うネタは、中央集権的な統治についてのお話。

一般的に日本において中央集権国家が成立したのは、6世紀から8世紀初めの飛鳥時代に入ってからとされている。

しかし、各地の有力者が「大王」として国家を支配していたヤマト時代も、ある意味中央集権的な国が各地にあったと評価できるだろう。日本として中央集権国家ができたのは飛鳥時代という点に異論を唱えるつもりはないのだけれどね。

異口同音「邪馬台国は畿内」 大阪・弥生文化博物館の新旧館長

2019/7/6

大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)の館長を3月まで務めた黒崎直名誉館長と、新たに就任した禰宜田佳男館長が語り合う講演会が先月22日、同館であった。「時代の変革と国家論」をテーマに、弥生時代から律令国家へと移り変わっていく過程について意見を交わした。

毎日新聞より

しかし、律令国家的な要素が出てきたのは実は弥生時代であるとする意見も出てきていて、これがなかなか興味深いのである。

  • 中央集権的な統治機構があったと考えられる吉野ケ里遺跡
  • 魏志倭人伝には登場しない吉野ケ里遺跡?
  • 文字文化としての漢字の取り込み

中央集権的な統治とは

弥生時代には中央集権的な統治がなされた?

さて、支那の史書を読んでいくと「倭国大乱わこくたいらん」という事件があったとされている。

「魏志倭人伝」によれば二世紀後半、つまり弥生時代末期の日本で起こった争乱だとされており、かなり大規模な内戦(或いは国同士の戦争)だったのではないかと推測されている。「魏志倭人伝」に書かれているのだから歴史の教科書で学んでも良さそうなものだが、そんな記憶はないんだよね。どうしてなんだろう?

さて、それはそれとして、縄文シリーズ「第4回」で吉野ヶ里遺跡について触れていることを思い出していただきたい。

この遺跡は佐賀県にある大規模な弥生時代の遺跡であり、集落の防御に関連した遺構であることに言及した。

吉野ケ里遺跡のサイトより

「外壕と内壕の二重の環濠が作られ、壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた防衛拠点的な設備があった」と紹介したが、ここもおそらく倭国大乱の舞台の一部になった可能性が言及されている。

吉野ケ里遺跡のサイトより

そして、この吉野ケ里遺跡には「王」の存在があり、集落の防護はかなり強固なものとなっていたことがわかっている。防衛担当者が居たかは不明だが、環濠は総延長2.5kmあるというから、建造・整備を含めてかなり力を入れていたことが分かる。

卑弥呼の登場でも知られる、「魏志倭人伝」、正確には「魏書」巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の記載には、「租賦ねんぐを収める邸閣が有った」とあり、徴税を行っていた様子が分かる。また、「国々に市があり、貿易を行い、大倭(倭人中の大人)にこれを監督させていた。」「その法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者は一家及び宗族を滅ぼす。」とあって、法律があり貿易を行っていた様子が記載されている。兵士がいたというような記述はないんだけどね。

「魏志倭人伝」の記載は、距離とか方角がかなり滅茶苦茶なので信憑性をどこまで認めるのかという議論はあるのだけれど、他に信頼できる書物が存在しない以上は、概ね正しいという風に判断するしかない。おそらく事実無根だったということはないだろう。

そして、「魏志倭人伝」の記載によれば、日本の国々は法律があって統治機構があったのだと読み取れるのである。

吉野ケ里遺跡

そして、この時代には既に中央集権的な人口集団が日本各地に30程あったのだろうと理解されている。おそらく、そのうちの1つが吉野ケ里遺跡になるはずだ。

吉野ケ里遺跡 最大の謎「王墓」はどこに? 卑弥呼の墓と様相異なる石棺墓

2023/6/14 08:00

邪馬台国やまたいこく九州説の候補地・吉野ケ里よしのがり遺跡(佐賀県吉野ケ里町、神埼市)で石棺墓が見つかり、一躍脚光を浴びている。有力者の墓とあって、女王・卑弥呼ひみことの関連も取り沙汰される。ただし、石棺墓は3メートルあまりで墳丘もなく、魏志倭人伝が「径百余歩の塚」(約144メートル)と記す卑弥呼の墓とは印象が異なる。それでも注目されるのは、吉野ケ里の「王墓」の可能性があるためだ。

産経新聞より

最近石棺墓の発見があった吉野ケ里遺跡だが、なんと「王墓」らしきものが発見されて大いに沸き立った。

吉野ケ里遺跡のサイトより

この遺跡には、大掛かりな主祭殿の存在が伺える建物跡が見つかっていて、おそらくは祭主がいたのだと考えられる。この辺りの話から弥生時代の生活様式が類推され、縄文時代に続いて割と真っ当な木材建築技術があったことや、祭祀を中心とした文化があったことが伺える。

これは「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国の話にも通ずる話だとは指摘されている。

ただ、吉野ケ里遺跡は発掘された遺物から紀元前400年頃から紀元後300年頃までに徐々に発展した都市だと考えられていて、卑弥呼の時代には大きな権力のあった地域だと推定され、北九州市に位置することからも、少なくとも朝貢する一団が通過する都市だと考えられる。したがって、登場しないのは不自然なのだが、今の所は、「魏志倭人伝」に登場するどの国かは比定できてはいない。

対馬国と一支国は概ね判明している

「魏志倭人伝」に登場した国名のうち、今の所、概ね分かっているのは2つ。

「対馬国」は現在の対馬にあったとされ、「日本書紀」にも国産み神話の中に「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。そして、対馬国と比定されるのが三根遺跡周辺地域である。

また、「一支国(一大國)」は壱岐であると比定されている。

あとは第1回でも言及した「奴国」だが、これは九州に存在しただろうことまでは比定されている。「後漢書」にも倭国の南に存在するとしているからだ。

その他の国は今ところ明らかになっておらず、諸説あるという状況だ。

なお、邪馬台国も当て字で、実は「ヤマト国」か「ヤマイチ国」が正しいのではないかという説もある。しかし、後のヤマト王権は奈良に都市を構えていたとされているので、そこの関係との整合は取れない。偶然同じなのか、連続性があるのかも含めて不明だ。

まあ、歴史家が人生をかけて研究してもハッキリわからないことを僕が考えて分かる筈もないので、「魏志倭人伝」の話はここいらで取りあえずは区切りとしておく。

卑弥呼は邪馬台国の女王ではない?!

そうそう、こんな話はあるので言及しておかねば。

「卑弥呼は邪馬台国の女王だった」というのは大間違い!?

邪馬台国にまつわる誤解

邪馬台国がどこにあったか、興味のある人は多いでしょう。しかし文献史料は既に研究し尽くされており、判断はほぼ不可能です。また、よく誤解を招いているのが、卑弥呼が「邪馬台国の女王」だったという説です。中国の『魏志倭人伝』には「倭国の女王」「女王国の女王」としか書かれていません。中国から王国として認められたのは「倭国」「女王国」であって、邪馬台国はその一部、つまり女王がいた場所を指す、都やムラだと考えられていたのです。

夢ナビより

教科書には大抵、邪馬台国の女王「卑弥呼」という感じの紹介がなされていると思う。ところが、「南へ邪馬壹国に至る。女王によって都べられる所である。水行十日・陸行一月。(南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。)」とは記載されているが、その女王が卑弥呼である言及は無い。

また、「帯方郡から女王国までは一万二千里(自郡至女王國、萬二千餘里。)」とある。

卑弥呼が出てくるのは別の文で、「その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。(其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。)」「その八年、太守王頎が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と旧より不和である。(其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和)」と書かれている。

これらの一連の記載がひと続きの話であるとすれば、卑弥呼は邪馬台国の女王であるという理解でいいだろう。だが、実際に原文の記載をあたると、「女王国」の話と「その国」の位置は離れている。

收租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之  自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史  王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯 

下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 

其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼  事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國  自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食 傳辭出入  居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞 

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里  又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至 

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里 

wikisourceより

そうすると、女王国の話と、邪馬台国の話は別の市に書かれているし、卑弥呼が治めたとされる国の記載も別で、倭国の女王は卑弥呼であるとは記載されるが、女王によって統べられる邪馬台国とは別にあったとしてもおかしくはない。

また、「年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。(事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。)」とあって、弟が政治をしている旨の記載がある。摂政がいたというわけだ。しかし、「夫は無く」の意味が、既に死別したのか結婚していないのかも不明。例えば、天皇は祭祀を司る立場であっても、結婚できる。実際、例えば推古天皇であれば夫は敏達天皇で、子供もいた。その後の女性天皇も半分は配偶者がいた。

そんなわけで、卑弥呼が生涯独身であったと考えるのは、少々早計のように思われる。教科書に書かれていた内容とは随分と違う印象を受けるね。

鬼道を以てよく大衆を惑わし

卑弥呼の即位は紀元後189年頃だとされていて、倭国大乱(146~189年)を終息させるのに貢献した人物であるとされている。ただ、神格視される人物の名前が無いのは割と良くある話で、神の声を聞く巫女が、単に「姫御子」と呼ばれていただけだという可能性も捨てがたい。

ただ、この時代に天皇を頂いた国である、つまり国を「しらす」存在(日巫女)と「うしはく」存在(その弟)が異なるという政治体系が見て取れるのは興味深い。今上天皇の名を呼ぶ風習は今以てないのだから、祭祀を執り行う卑弥呼(日巫女)に伝わる名が無いことにも整合する。天皇に諡がつけられるのは、もっと後世になってからだしね。

そして、邪馬台国と倭国は別であるとの説に立脚すると、邪馬台国が何処にあるのか?という議論も随分無意味な話になる。或いはヤマト国、ヤマイチ国、ヤマタイ国などを混同して伝わり漢籍に記載された可能性まで考えると、複数の説が乱立する理由もなんとなく説明できる。

では、「鬼道」は何か?ということなんだけど、「よく大衆を惑わし」という部分が大衆を指導したという風に読むのが一般的であることを鑑みると、現代の宮中祭祀のようなことを行っていたと見るべきのように思う。

鬼道は一般的にはシャーマニズムと理解され、縄文時代より動物の骨を用いた卜占(動物の骨や亀の甲羅などの模様や形状より、吉凶や未来の予知を行う方法)の痕跡があるため、卑弥呼はそういった占いに通じた人物であったと考えられている。「魏志倭人伝」にも「其俗舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆」と書かれているので、卜骨・卜甲が鬼道の正体であったという解釈が主流である。

また、卜骨・卜甲を用いた占いの痕跡は、弥生時代の遺跡である壱岐のカラカミ遺跡などから発掘されており、支那からその占い手法が伝播してきたと考えられるため、卑弥呼も同じ手法を用いていたのではないか?と考えるのは自然だ。

ただ、紀記にあったように天岩戸になぞらえる話が語り継がれていることや、「鬼」と「魂」は同じもので、何れも空に上って「星」となるという古代支那の話(魂と魄の話)があることを考え合わせると、「鬼道を用いてよく人を惑わし」とはすなわち占星術に近いものだったのだろうと僕は考えている。

「魏志倭人伝」の記述を信じるのであれば、卑弥呼は人前に殆ど出てこない。したがって、良く人を惑わす(つまり導く)という話が伝わる以上は、人前に卑弥呼が出てこなくても鬼道の効果が実感できる方法でなくてはならない。そうすると、農業社会だったはずの弥生時代において、鬼道は農業と暦に関係したものであった可能性が高いと思うわけだ。

卜骨・卜甲で「今年は豊作でしょう」などとやるよりも、「この作物はこの時期に植えなさい」「そろそろ収穫の時期です」と、指導した方が農業社会では圧倒的に支持される可能性が高いからだ。この時代、既に支那で暦は発明されて広まっていたから、可能性としては否定できない。

日本最古の歴史書と文字

日本の歴史書との文字文化の始まり

さて、日本の歴史において最初に出てくる歴史書は、紀記(「古事記」「日本書紀」)となっている。弥生時代から離れて脱線するのは申し訳ないが、少し言及しておかないと辻褄が合わなくなるのでお付き合い願いたい。

紀記のうち古い方が「古事記」で、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂して第43代の元明天皇に献上されたとされる。本文は変体漢文を主体とした歴史書である。

「日本書紀」の方は、藤原不比等ふひとが関わって編纂され養老4年(720年)に完成したとされている。正格漢文に近い文体で書かれた外交文書である。なお、この「ふひと」は「史」と当てる説もあり、支那では朝廷で記録・文書をつかさどった役を指す事を考えると、本名なのかどうかちょっと疑わしい。

現存する書籍はこの2つではあるが、「古事記」は上中下の3巻、「日本書紀」は全30巻、系図1巻(現存せず)よりなるという。これだけの分量の書物を短期間で編纂しているあたり、他にも書籍があったのではという議論が出てくるのは当然だし、紀記の中にも他の書物を参考にしたという事が言及されている。この辺りは別の回でもう少し詳しくやりたい。

で、興味深いのは、先に編纂された「古事記」の方が変体漢文によって編纂された事実である。変体漢文とは、漢文の用法を用いながら日本独特の使い方で漢字を当てはめる、言わば当て字というか万葉仮名用法というか、そういった文体のことを言う。

このことは、最初に話し言葉があって、同じ音の漢字を当てはめる形で文字を支那から借用して文化を形成したことを意味しており、一般的な解釈もそのような理解となっている。

現在、地球上に存在する言語の数は諸説あるが8,000以上もあると言われる一方で、文字を持っている言語は400程度。文字を持たない文化の方が圧倒的に多い。

言葉の研究館より

日本もかつては文字を持たない文化だったが、文化の発展と共に文字を使うことの重要性が認識されて支那から輸入することになった。恐らくは文字を学ぶための留学生を支那に送り込んだり、渡来人を招いて講師としたことで漢字を取り込んでいったのだと思われる。そして、希人信仰というのも、そういった背景によって形成されていったのだろう。

しかし、文字が表舞台に出てくるのは、紀元後7世紀初頭。文章でその存在を示唆する日本で初めての冠位・位階の「冠位十二階」が制定されたのは紀元後603年頃で、律令制度を広く知らしめるために文字は必須。翌年紀元後604年には十七条憲法が聖徳太子によって公布されている。

漢字の痕跡

そこから遡って、第21代雄略天皇の在位したと言われる紀元後5世紀末の457~489年には何らかの歴史書が存在したことが、稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌銘きんぞうがんめいからも推測されている。つまり、現時点で文字文化が歴史的に確認できるのは5世紀末頃だというわけだ。

実際に、紀元後6世紀に入ると、第29代欽明天皇の時代には百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じている。俗に言う仏教公伝である。仏像などはそれ以前にも日本に持ち込まれ、それとともに仏教の存在が日本に伝わっていた証拠が日本各地にあり、第21代雄略天皇の時代にも百済との交流の際に仏教に触れた可能性が示唆されている。

更に文字の存在に関しては一気に時代が遡って、紀元後57年頃に授けられたとされる金印には「漢委奴國王」の文字が刻まれていたわけで、朝貢はその頃から行われ、少なからず文字の存在にも気がついていたと推測される。また、弥生時代のカラカミ遺跡(紀元後1~3世紀)からは「周」の文字が入った土器が発見されていて、弥生時代から漢字が日本国内に入っていた(使われていたかは不明)可能性が高い。

西日本新聞より

上で言及したように、中央集権的な組織運営が弥生時代にも為されていた痕跡が残っている以上は、「文字を利用したい」という動機は十分にあったと考えられる。だから、文化取り込みの一環として渡来人を厚遇するという事が行われた理由付けとしても説得力がある。法律も支那から近隣諸国へ輸出されていたというしね。少なくとも指導者として日本に招いた渡来人が文字を使わなかったとは考えにくいのである。

そんなわけで、現存資料から確認できる文字文化の始まりは紀元後5世紀頃からだが、文字の取り込みの模索に関しては紀元後1世紀頃から始まっていたと考えるのが妥当だろう。残念なことに現時点でそうした証拠らしいものは見つかっておらず、土器や木簡、或いは占いに使った骨や貝殻などに文字が刻まれていても良さそうではあるが。

現存する最古の木簡と最古の硯

例えば、日本で見つかっている最古の木簡はというと、紀元後7世紀末の飛鳥時代のものだ。

人名・身分…戸籍記した最古の木簡 太宰府で発見

2012年6月13日 0:00

福岡県太宰府市は12日、市内の国分松本遺跡で、人名や身分など戸籍の内容を7世紀末(飛鳥時代)に記録した日本最古の木簡が見つかったと発表した。律令国家体制が整う大宝律令の施行(8世紀初め)に先駆けて、統治の基本となる戸籍制度が完成していたことを示す貴重な発見という。

~~略~~

出土した木簡は(1)701年に「評」が「郡」に変更された(2)685年に「進大弐」の冠位使用が始まった――を理由に、市は685~701年の作成とみている。

日本経済新聞より

そして、若干話は逸れるが法隆寺金堂からは落書きも見つかっている。

法隆寺金堂の焼けた天井板と落書き(法隆寺提供、奈良文化財研究所撮影) - 飛鳥時代の落書き、法隆寺で発見 天井板、金堂火災後に 絵師が仲間描いたか - 写真・画像(1/3) | 西日本新聞me
法隆寺金堂の焼けた天井板と落書き(法隆寺提供、奈良文化財研究所撮影)

コレは最近の記事で、法隆寺は推古15年(紀元後607年)に建立されているので、恐らくはその頃の落書きである。法隆寺金堂は天智9年(紀元後670年)に一度炎上しているのだが、燃え残った部分を再建するときに利用したようだ。

手慣れたタッチの落書きで、筆と墨によるものと想像される。

こうした木簡の発見や法隆寺金堂に残る落書きから、当時、既に職人達にまで筆と墨を使う文化が浸透していたことが伺えるのだが、筆と墨があれば当然、硯が必要となるハズ。そして、筆や硯は大量に出回らないと文字文化は伝播しない。さらに、筆や硯は当然手作業で作られていただろうから、少しずつ広まったと考えられる。

国内最古級のすずり?下稗田遺跡で3点出土 福岡・行橋市

2020/10/10 8:00

福岡県行橋市の下稗田遺跡で出土していた板状の石3点が弥生時代中期前半ごろのすずりとみられることが9日、分かった。各地の出土品からすずりの有無の再検討を進める国学院大の柳田康雄客員教授(考古学)の調査で、これまで同県糸島市や朝倉市などで弥生時代中期中ごろのすずりを確認しているが、今回はさらに古く国内最古級という。

西日本新聞より

そして、国内で発見された硯は、実は弥生時代中期頃から存在していると見られるんだよね。

西日本新聞より

複数の弥生時代のモノと見られる硯が発見されているということは、文字が使われていた可能性もあったと理解すべきだろう。

糸島の弥生遺跡に硯工房か 出土の石製品約50点:朝日新聞デジタル
福岡県糸島市の御床(みとこ)松原遺跡から出土した弥生時代の石製品の中に、硯(すずり)とみられる板状の石が約50点含まれていることがわかった。外交・交易の拠点でもあった同遺跡には硯の工房があったとみら…

福岡県糸島市の御床松原遺跡からは50点ほどの硯が見つかり、硯工房があった可能性が指摘されている。御床松原遺跡は「魏志倭人伝」に登場する伊都国であると比定されていて、硯の一部は弥生時代中期前半(紀元前180~150年頃)のものとみられている。

中央集権的な統治と硯、そして文字。硯があるからといって直ちに文字があったことにはならないが、硯を何に使ったか?といえば、まさか貿易目的だけで作っていたという事にはなるまい。文字はあったのでは?という根拠の1つとしてはアリだと思う。

まとめ

というわけで、弥生シリーズ第2回は、中央集権的な組織運営が行われていた弥生文化と、文字の関わりについて言及した。残念ながら妄想成分は多めなんだけれども、中央集権的な国が形成されていた以上は、情報の伝達拡散には文字がどうしても必要となる。更に、律令制、つまり法があって罪が裁かれる、政治があって利益が調整されている集団があったのだとすれば、やはり文字の必要性は高かろうと思う。

況てや、文字のある世界に朝貢していたのだから、何百年も無視できていたとは考えにくいんだよね。

まあ、実際にはその証拠が出土していないので、想像の域を出ない話ではあるんだけど。

第1回に引き続き、第2回の記事を書かせて貰ったのだけれど、今回も妄想成分多目であった点はご容赦願いたい。

追記

このシリーズでは追記しないことにしているのだが、説明不足というか蛇足になりそうだったので説明を割愛した部分がある。

「鬼道を用いてよく人を惑わし」の「鬼道」が卜骨・卜甲ではないと考えた理由というか、根拠は実はあって、1つは上に書いたように魂魄こんばくの話。

支那の道教や伝統中国医学における霊についての概念で、魂魄こんばくというものがあって、道教の教えによると魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指し、魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すとある。

一方、儒教では「魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」といった現象は、気が散じてゆく姿で、魂は「神」に、魄は「鬼」と名を変えるという。

非常に大雑把に書いたので、詳しい人が見ると怒られると思うのだが、魂魄の何れにも「鬼」という言葉が使われている。つまり、鬼道とはこの流れを読む術であって、すなわち天に帰した星の動きを見ることがその真髄であると。

多くの歴史家は、鬼道を卜骨・卜甲だと解釈しているようなのだが、「魏志倭人伝」にも「その習俗は、事業を始めるときや、往来などのときは、骨を灼いて卜し、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、焼けて出来る裂け目を見て、兆(しるし)を占う。(其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。)」という具体的な記載がある。

しかし卑弥呼の部分では「鬼道につかえ、よく衆を惑わせる。年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。(事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。)」との説明があるから、むしろ鬼道と占い(卜骨・卜甲)は別のものだと解釈する方が自然だと考えたわけである。

コメント

  1. アバター 河太郎 より:

    鬼道が占星術という御意見には眼から鱗でした。なるほど確かに儀式をビジュアルに見せ、その結果を衆に(といっても庶民でなく上級層でせうが)掲げてみせるであろう亀甲や肩甲骨の太占は、パフォーマンス的な要素が強く(鹿の肩甲骨を焼く卜占は蒙古もやっており、それはシャーマンが長老たちの前で見せる儀式となっている)、引きこもりの卑弥呼には似つかわしくはない!
    確かにそれら骨で行う卜占は、ヤマト王権が朝廷になってから、壱岐や対馬そして関東なら伊豆諸島の大島の卜者を置いている。明らかに天文系とは分離しており、天文に比べると2級扱いで、朝廷の陰陽師も暦に関わる天文が重視されてる。
    天武天皇は式盤(風水の羅盤)を用いて
    壬申の乱で方位術(いわゆる八門遁甲)によって戦略を立てております。
    これは木霊様の御指摘されていた水耕と暦の関係から、天文(占星術など)が重視されるのは当然だし、弥生時代が稲作時代なら、2世紀の時点で暦法や天体観測による卜占が開始されていたはずですね。だって水耕となると麦や稗のような粗放農業では収穫をあげられないから。
    管理が必要なら暦や天文の知識は不可欠であったはずです!
    なにより卑弥呼が邪馬台国の女王ではないので?という問いは秀逸でした。
    確かに助詞を用いる膠着語で語順がSOV型の和語に対し、表意文字(漢字)を使い、文に区切りがなく、かつSVO型の中国語では、音韻変化や翻訳時の解釈の仕方で誤訳が出たり、別な意味に変わってしまう可能性は高い。つまり御指摘の通り「卑弥呼が邪馬台国の女王」とは一言も書いてない事になる。
    私としては邪馬台国をヤマド国と読めば、神武天皇東征のヤマトに繋がると思っていたので、目からウロコでした。
    私は記紀は基本的には史実を書いてると思っております。ただ……編纂が8世紀の天武天皇から推古天皇でせう? 伝承がぐちゃぐちゃになり、キャラクターや時期が入れ替わっていると思うのですよ。
    吉野ケ里については、近場に徐福の神社があり、伝承から言ってシナ人の国であったと考えています。実際に漢書だか何かに、使節が「支那人の国が途中にある」と驚きの記録していたはずで。
    同様に神武天皇の東征で瀬戸内海を渡る時に、吉備野あたりで浦嶋子(浦島太郎)なる翁が釣竿を担ぎ亀に乗って表れ、導いたと日本書紀にあったと思う。でも、この時代の浦嶋子が乗った「玄武」とはスッポンを表してるんです。スッポンは雌蛇と交尾して子孫を残すと言われていたのですが、淡水生のスッポンが瀬戸内海に現れることじたい、支那から来て各地にコロニーを作っていた連中がいると思うんですよね。
    それと今では否定された騎馬民族説ですが、アレは征服説としたのが間違いなだけで、騎馬の扱いになれた半島系の連中はやはり来ていたと思う。でないと船戦が主体な飛鳥時代までに、四道将軍(おそらくは戦皇子と呼ばれる王族)が騎馬隊を率いたり、馬場を九州や関東(どちらも火山性のススキの原だった)に馬場を急速に開いた理由がつかない。
    それと紅ですね。硫化水銀ですが、倭国の国が生口(奴隷)のみ献上したとは思えない。この時代は硫化水銀は貴重な資源で、これらを献上した事が大陸と繋がったのでないか疑う。すると硫化水銀が豊富に取れるのは火山帯が多い関東か九州になります。とすると卑弥呼はやはり九州の国の女王だったと思うんですよ。
    ううむ……面倒くさいから箸墓古墳を掘っちゃえよ!! それで白黒つくべえ!

    • アバター 河太郎 より:

      訂正)紅→「朱」
      紅は紅花でした。硫化水銀は朱ですね。

    • 木霊 木霊 より:

      コメントを頂いてから、少し文章の推敲をしたので、頂いたコメントの前提となった記事とは若干齟齬が出てしまいました。
      鬼道が占星術ではないか?という珍説は、とある小説に出ていたモノで個人的にお気に入りなのです。考えてみるに、その方が遙かに説得力が出ますから。

      神武東征の話の下りはノーコメントで。
      実は、第4回で書き始めたネタがそれに関連する話でして。その時に改めてコメントさせてください。
      騎馬民族云々の下りもノーコメントで。
      実は、第3回のテーマがアプローチが全く違いますが、戦に関する話に触れています。とはいえ、ちょっと着想を頂いたので、内容をもう少し推敲したいところです。お好みの結論に至れるかは、出てくる資料次第なんですが。

  2. アバター 河太郎 より:

    それと魏志倭人伝(三国志魏書東夷伝倭人条)の邪馬台国への道順がめちゃくちゃなのは軍事的理由と思われます。
    これは後に元のフビライが攻めてきた理由でもあるのですが……大航海時代の南蛮人の来航や、明朝の鄭和の大遠征航海まで日本列島の位置はかなり誤解されてました。日本列島を三日月型と見た時に、 
    本州の中京地域から九州にかけてが、鏡に映したように「逆向き」だと思われていた。つまり九州は太平洋方面へ南へ張り出しており、そこから諸島が台湾あたりまで伸びていると考えられていた。
    (あくまで大陸の連中はですが)
    フビライはなので九州を落とせば容易に
    中国南方の南宋や、さらに越南ベトナムを攻撃する橋頭堡になると考えていた。
    で、当然ですがそれより前の三国志時代には同じような地理と思い込んでいた。
    そこで実際より到着地点を南方海上に置けば、魏(正確にはもう西晋だけど)が
    呉を討つ時に、「南方の海上から倭人の援軍が攻めるぞ!」というブラフになったのですよ。その為に倭国の正確な位置は
    「重要な軍事機密」であったと!
    それ故に上陸地点をかなり盛ったのだと私は思います。実際、陳寿が三国志を書いた時は、彼が亡国の民として仕えた西晋が呉攻略に出る前であります。
    魏書、呉書、蜀書のうち呉は未だ健在であり、三国志は他の史書と違い、後の世に前王朝を書いたものではなく、当時の「現代史」であった事を失念してはいかんと思います。

    • 木霊 木霊 より:

      なるほど、魏志倭人伝に軍事的理由ですか。
      それは一考の価値のあるお話ですね。
      確かに軍事機密が関わることかもしれません。が、他にも理由があるとは思っています。その辺りは第4回で触れられると良いかなと。

  3. アバター 河太郎 より:

    ううむスルメのように噛むほど味が出る記事であります。この回だけで御飯🍚三杯はいける。
    バカはともかくとして、やはり倭国女王の卑弥呼がリアルな政治は弟にまかせていた話っすよね。皇室に似てません?
    実は世俗権力と、文化精神的な支柱たる権威を分けるのって、日本と西欧の共通点なんですよね。中国は皇帝に全てが(表向き)は集中するし、
    ロシアはツァーリがロシア正教の大司教任命権を持つので、コレも中国皇帝と同じです。これは東ローマ・ビサンチンからの伝統すね。
    で、そもそもアジアで何故に政教分離とか、権力と権威の分離が起きたのか?
    武士という世襲のPMCが朝廷に代わりに統治するシステムが生まれたのか? 
    もともとが卑弥呼スタイルで俗世と聖を分離するシステムが、弥生のヤマト時代初期にできていた……そのミームが伝わってるから、日本人は皇室と武家の二柱の統治に自然と従ってきた……のでは?

    文字はあったでしょ当然に。もちろん神代文字とかじゃありませんよ(笑)
    硯があって、それが輸出用だとしても、実際にソレを用いる人たちがいないと、商品の改良や品質向上ができないから。
    ある程度の層はいたはずです。てか国の為政者がまんま文盲なら、硯を輸出するという発想すら生まれないでせう。
    何より西洋と違って中国の漢字は表意文字です。表音文字の文化は音韻を大事にします。
    プラトンは「文字は音(発音)の影」と言ってるし、彼の師匠のソクラテスは文盲だった。これ全て音韻変化を大事にするからです。
    中国の場合、文字があって、物事の分類(陰陽五行説・色体表)して名を定めて、語順(文法)へと進む。つまりは音でなく文字が優先されるんです。
    これは木霊様もリアル支那人と仕事させるから御理解いただける想うすが、
    北京話と広東語の中国人は筆談しないと話が通じない。マンガ「ベルセルク」の両語版を持ってますが、同じセリフの字面が全く違う! 大陸では漢字という「文字の意味」を軸にすることで、同一言語とは思えないほどに発音が違くても意思疎通がてきるよう発達してきた。
    そのような文化圏に対して、外交文書を携えずに朝貢へ行けば、蛮人として序列が下げられるのは目に見えてます。
    支那との外交上に不可欠と想う。
    少なくとも暦や収穫量(税)を担当する者や、外交担当者などに(少数でも)文字の実用者集団があったと観るべきでせう。で、文字が実用されてる時点で中央集権てあるはずです。
    なぜならコインは元は収穫量を測る為のタグとして生まれ、文字はそれを記録する為に生まれてますから。
    中央集権的に統治を合理化せねばならない規模に来ていれば文字を必要とするのは当然で、木霊様の仰る事は合理的かつ正解てあると思います。

    • アバター 河太郎 より:

      ちなみに竹簡や木簡の物的証拠が出ない事ですが。それは日本は骨が西欧よりあまり出土し難いのと同じ理由、つまり酸性土壌ゆえに有機物が残らない為では?
      焼き物などに彫るというセンはあるですが、その辺は謎ですけれど、硯がある以上、かなり前から文字は使用していたと思えます。

  4. アバター 河太郎 より:

    やはり木霊様の星占い説は斬新なようで、かつての埋蔵金探索仲間にメールしてみたら皆さん食いついてきた(笑)
    明治以前の埋蔵金を探す人は八門遁甲とか九星気学とか風水とか研究してますからね。で、面白い指摘あったので。
    日本って原始神道とか道教の影響を受けているのに、星神が無いんですよ。
    道教は北斗七星を龍車として北極星を崇めますから(日本の庚申信仰・妙見様)、
    天帝(北極星)を中心に神々を星になぞらえるのですが。神道系にはそれが無い
    住吉神社や宗像神社の三星(宗像三女神など)の航海神を除くと(ほぼ縄文系) 
    善神としての星神が存在しない。
    例外として常陸の天津甕星があるのでさが、これは天津神に逆らい、ヤマトと争った悪神です。金星の象徴であり(素戔嗚やルシフェルと同じ)星の輝きが最も強い星なので、太陽(アマテラス)と争った夜の神とされる。とても強くタケミカヅチのミコトが敵わず、その地域のシドリ神(倭文神・倭文とは日本独自の織物の事。秦氏が養蚕を始める前の繊維)てある建葉槌命(タケハヅチ)が援軍をもとめられ、倭文織の網で捉えて鎮圧したといいます。鹿島神宮とかあるのは、この時の天津甕星(アマツミカボシ)の鎮圧の前線基地としたからだとか。
    前置きが長くなりましたが、この悪神しか星神(日本書紀にしか出てこない)は存在しないはずです。
    んで、そもそも卑弥呼が占星術をよくするヤマトの祖だったならば、(卑弥呼が邪馬台国の主の前提)その後継国家である
    ヤマトが星神信仰を捨てるわけはなかろうというのであります。
    つまりは星神信仰を捨てて、大陽信仰である日ノ本になるのは、ヤマトが邪馬台国の後継国家ではないからでないかと。
    まぁ木霊様の仰るように卑弥呼が邪馬台国の女王でないならば、成立しない仮説なんですけれどね。

  5. アバター 河太郎 より:

    追記)天津甕星は常陸の蝦夷討伐に出かけた戦皇子で、日本武尊ではないかとの説でしたね。偽書ですが「ホツマツタヱ」では蝦夷討伐に日高見国へ赴いたヤマトタケル(倭建武)が、蝦夷たちより「お前の祖先は出雲の主たるスサノオである」とつたえられ覚醒する話がある。
    偶然とは想うが、常陸風土記には景行天皇の皇子の倭建武命ではなく、「倭建武天皇」と記されている。
    これは倭建武命が「国譲りした出雲王朝の血を引く皇子」であり、ここに記される「蝦夷」とは、国譲りの際にヤマトに抗い、安曇へ、そして東国へ逃れ、蝦夷に金属加工や騎射を伝えた物部氏の残党ではないかと(物部氏は主流は連となり王権に従ったが、逃散した者もいる説)いうのですね。で、その倭建武命は、当地で物部氏残党に担がれて、王権に大反乱を起こしたのでないかと。
    この説を取ると、いわゆる日高見国が関東から仙台あたりに存在したと言う説を裏付けるし、日本刀の原型が蝦夷の蕨手刀である事や、蝦夷が騎射戦術を用いて朝廷軍を苦しめた話に繋がると。
    どーなんかな?とは想うけど、ロマンはあるので一つ報告しておきます。