掠奪!銃殺!通州兵変の戦慄

ジェノサイド

あ、これ、昭和12年(1937年)7月29日に発生した通州事件を報じた朝日新聞のタイトルである。

通州事件84周年:人道に対する女性と子どもの残虐行為の無差別な虐殺は、日本軍の中国人に対する印象を完全に変えました。

2021/07/29

多くの日本人生存者の証言によると、通州治安部隊は日本人民間人を殺害しただけでなく、日本人女性を大規模にレイプした。南京虐殺と比較して、暴力のレベルはさらに悪かった。

「The News Lens」より

原文が繁体字のニュースブログを翻訳したものを引用させて頂いているが、台湾のサイトだろうか?

ともあれ、通州事件は日本人ならば知っておきたい歴史のうちの1つである。

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この記事は「惣郷木霊の四方山話」でお送りしております。

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どこで何が行われたのか

時代背景

日清戦争(明治27年:1894年7月25日~明治28年:1895年4月17)と日露戦争 (明治37年:1904年2月~明治38年9月) を経て日本軍が大陸に出て行っていた時代、満州国が建国(1932年)されてからいよいよ漢人による反日感情は高まってきていた。

その背景には国民党と共産党との主導権争いや、ロシア革命より勢力拡大を図る共産主義の拡大などがあって、支那事変(昭和12年:1937年7月7日)に至ってしまう不幸な時代である。国民党と共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(同年7月15日)と蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(同年7月17日)が、この惨殺事件に繋がっていく。

そもそも日露戦争(明治37年:1904年2月~明治38年9月)の勝利によって日本に割譲された満州を巡る争いから、満州事変(昭和6年9月18日)に繋がっていってしまった辺り、そもそも大陸の人間を信用しすぎたという事が色々なボタンの掛け違えに繋がったといって良いだろう。

ロシア帝国が倒れ(1917年)てソビエト連邦が建国される(1922年12月30日)と、ソ連は共産主義思想を広めるために支那との距離を急速に詰めていく。

支那国民党と支那共産党の合作(共闘するとの意味)の、その裏にはソ連の代表として支那を訪問していたアドリフ・ヨッフェがいた。1度目の国共合作(1924年~1927年)は、ソ連の動きによって実現した。そして、1度目の合作の時は南京事件(昭和2年:1927年3月24日)の発生により、日本を含む外国領事館が襲撃されて多数の死傷者を出している。血を伴う革命を是とするのが当時の共産党思想であり、必然的な流れだったのかもしれない。2度目の合作(1937年~1945年)の際にも、「抗日」で手を携えた国民党と共産党は北伐の一環として、日本人を敵視しながら国内の掃討をし、その流れは通州事件に繋がっていく。

その時何が起こったか

そして、84年前の本日、唐突に支那人達が日本人に襲いかかる事件が発生するのである。

無残……日本人虐殺の「通州事件」はなぜ起こってしまったのか?――生き残った記者が激白する地獄の現場

2019/07/28

昭和12年7月29日。北平(今の北京)の城壁の上に立った市民は東方、城門の向うに、ウッスラ白煙の動くのを見た。やがてそのうす煙りは、黒いかたまりとなり、一条の大きな円柱を作って高くのぼっていった。北平の東で目ぼしい所といえば、まず、30キロ程の先の通州である。通州に何事か起きた! 市民はすぐにそう直感したことであろう。それほど北支は、日本軍と宋哲元軍の衝突の結果蘆溝橋事件とか広安門事件とか続出の騒然たる物情であった。

「文春オンライン」より

情報手段が余り発達していなかった当時、盧溝橋事件(昭和12年:1937年7月7日)の発生について十分な情報があったとは思えないのだけれど、物騒な事件が発生したということは風の噂で伝わっていたに違いない。

この記事では 北平(今の北京)から見た様子を描写しているが、北京と通州は30km程度しか離れていない。白煙が黒い円柱となって立ち上るほどのことが通州であったのである。

実は通州ではたいへんなことになっていたのである。29日午前4時頃から闇をひき裂いて銃声がなり始めていた。北平で、はるかに見てとった、おびただしい煙りのその下では、何ぞ思いもかけない冀東政府保安隊が叛乱を起して、日本居留民虐殺と云う大それた仕事に、とりかかっていたのである。

「文春オンライン」より

当の通州では、早朝4時頃から銃声が鳴り響き、そしてその狂乱は一日中続いたといわれている。

日本人約300名のうち、あとで生存と発表された者は、たしか131名だった。何しろ人の動きの激しい時のことだから犠牲者の数字は明確につかみようがない。ともかく200名以上は惨殺されたといってよいだろう。

「文春オンライン」より

果たしてその当時の情報が何処まで正確であるかを今知ることはできないが、惨殺された死体は男女の別を判別する事は困難で、その数を数えることも難しかったというから、ただ殺した、という事ではなかったようだ。

日本軍の留守を狙われた

通州は小さな都市ではあったが、その当時は日本軍も駐屯していた。既に、きな臭い状況になっていた支那において、軍隊の守り無しということはなかったのだが、しかしその当日は留守であった。

当時菅島部隊といって2、300名の通州派遣軍がいたのだが、それが29日朝から附近に駐屯の宋哲元軍に攻撃を加え、これを追払って、そのまま北平の南苑方面の戦闘にまわって了った。残ったものは、通信兵や憲兵の少数で日本軍兵営は留守同然であった。

「文春オンライン」より

その留守を狙われたのである。

そのタイミングを図る事ができた理由は、実行犯が冀東保安隊、つまり通州の保安部隊であったからである。ただし、この保安隊の幹部には強い反日感情を抱くものも少なくなかったと言われている。そんな部隊を「友軍」だと信じていたというからかなりおめでたい。

友軍の間柄だった冀東保安隊は一夜にして寝返り、ところもあろうに一番安全地帯だと信じられた通州に、日本人虐殺事件を起したのだ。そこで当時おきていた数多の前後の事情のうち、第一にあげねばならないものは、冀東保安隊幹部訓練所爆撃事件である。これが日本軍の手でやられたと云うのだから、驚いたものである。これが少くとも直接の原因だったといってよい。

「文春オンライン」より

そして、関東軍による冀東保安隊訓練所の誤爆事件(同年7月27日)を起こしていて、数名が重症、数名が爆死という惨事を招いている。

事件を画策していたのは支那共産党

ただ、冀東保安隊がこの様な暴発をした背景には、支那共産党の暗躍があったとされている。

事件の首謀者は、自治政府保安隊幹部で反日派の張慶餘(ちょうけいよ)と張硯田(ちょうけんでん)だった。両者は直前に起きた「盧溝橋事件」で日本軍と武力衝突を起こした国民党軍第29軍と予てから密通し、武装蜂起の機会を窺っていた。背後で糸を引いていたのは中国共産党だ。

当時、蒋介石率いる国民党は中国共産党との「抗日共闘路線」に舵を切っており、第29軍の主要ポストにも複数の共産党員が充てられていた。

日本と国民党政府の全面対決を画策する共産党は、冀東防共自治政府とその保安隊にも「抗日分子」を浸透させ、日本人襲撃計画を立てていた。 通州の惨劇は、中国共産党の謀略による“計画的テロ”だった可能性が高い。

「NEWSポストセブン」より

盧溝橋事件からの流れで支那共産党の暗躍があった。そして 通州の惨劇は予めデザインされていた疑いが強い。7月28日夜12時には通州の城門がすべて閉鎖され、一切の交通通信が遮断されていた。つまり、退路が無い状態であった。そして、通州派遣軍が留守の所を狙って早朝からの襲撃である。

退路を断った上で一網打尽にして虐殺するところまでがセットになっていたのである。ついでにいえば、冀東保安隊幹部訓練所爆撃事件もその原因は明らかにされていない。

陰謀論は好きではないのだが、ある程度はそういった謀略が練られていたと考えた方が話が通るのである。

この5ヶ月後には南京攻略(昭和12年:1937年11月5日)が行われる。そこの惨劇ばかりが宣伝されているのだが……、歴史の1頁として忘れ去られている事件であることをチョットだけでも思い出して欲しいのだ。

追記

コメントを頂いた書籍をご紹介。

夏休みの課題図書的な位置づけで、読んでみたいと思います。

コメント

  1. 当時の支那との戦いを支那側から見た本があります。一応はフィクションという形式ですが、興味深いのではないかと。「敗走千里」と「督戦隊」という本です。詳しくは前文を読んで頂ければ。

    • 実に興味深いですね。
      夏休み期間中に読んでみたいと思いますよ。
      紹介ありがとうございました。