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ライダイハンに光はあたるか?韓国裁判所からベトナム戦争民間人虐殺に関する資料提出要請

大韓民国ニュース
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この話はかなり根深い部分があるので、あまり深入りせずに失礼したい。

韓国裁判所、「ベトナム戦争民間人虐殺」資料を国情院と国防部に初めて要請

登録:2021-04-13 03:55 修正:2021-04-13 07:29

韓国の裁判所が、国家情報院(国情院)と国防部に対し、ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺に関する資料を送付するよう要請した。裁判所が行政機関にベトナム戦争民間人虐殺事件のすべての資料を要請したのは今回が初めて。

ハンギョレより

ベトナム戦争では「勇猛果敢」と称された韓国人兵士だが、その裏側には酷い虐殺があった。その事は教科書などでは教えてはくれない。

韓国軍兵士による虐殺とそれに至るまで

ベトナム戦争は何だったのか?

ベトナム戦争(1965年11月~1975年4月30日)は、アメリカとロシアの代理戦争だと言われていて、朝鮮戦争(1950年6がt25日~1953年7月27日)とその構図が似ている。

ただ、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)と、ゴ・ディン・ジエム率いるベトナム共和国(南ベトナム)が戦った戦争と簡単に割り切ることの出来ない複雑な事情がある。

北ベトナム側にソ連が付き、南ベトナム側にアメリカが付いた、というような単純な構図を教科書では教えていると思うのだが、ベトナム戦争は別名第2次インドシナ戦争と呼ばれる。

インドシナ戦争(1946年12月19日~1954年8月1日)は、ベトナム民主共和国の独立をめぐる戦争であり、ベトナムとフランスが戦った戦争である。フランスの殖民地であったベトナムは、1945年8月15日に日本軍が降伏をしたことをうけて、ベトナム独立同盟会が指導する蜂起がベトナム全土で起こった。

日本軍はフランスの殖民地であったベトナムに駐留し、その間に日本軍庇護下でベトナム帝国を樹立(1945年3月11日~9月2日)している。しかし同年、ベトナム飢饉と呼ばれる大規模な飢餓が発生して、40万人から200万人が餓死してしまっていた。このベトナム飢餓は、天候不順による凶作に加えて、米軍の空襲による南北間輸送途絶、そして日本軍やフランス軍よる食料徴発が重なることで発生。

つまり、ベトナムの地は日本軍とフランス軍との争いによって飢饉が発生し、餓死者を出した。だから、独立しなければならないというロジックが成り立ってしまったのである。

こうした背景があったので、ホー・チ・ミンによって1945年9月2日にベトナム民主共和国の独立宣言が行われ、ベトナム帝国はその短い役割を終える。

日本軍はベトナムから撤退したが、フランス軍はまだ居座っていたので、ホー・チ・ミンは独立を主張してフランス軍に退去を求めた。しかし、フランスは領地を占有して小作農に農作物を作らせて搾取し利益をえていたので撤収を渋り、南ベトナム側にコーチシナ共和国を樹立させてしまう。山岳戦闘が続いて泥沼化するのだが、結果的にはベトナム独立同盟会(ベトミン)が勝利。ベトミンはソ連の支援を受けて次第に軍事力を増強させるに至り、ジュネーヴ休戦協定(1954年7月21日)によってインドシナ戦争は終結し、ベトミン側、つまりベトナム民主共和国が北緯17度線で区切る北側を収める体制となる。

そして、これを機にベトナム民主共和国は社会主義化を推進する。何しろ、フランス植民地時代には土地を持てない小作農が多数いて、フランスに利益を持って行かれていたために平等に利益分配すべしという考え方は浸透しやすかった。こうした背景を受けて南側は反共主義を掲げた政策を推進せざるを得なくなる。しかし、南ベトナムはゴ・ディン・ジエム政権の失敗によって社会不安が増大していく。そこを好機と付け込んだのが北側の勢力なのである。そして、ベトナムお得意のゲリラ活動が展開され、次第に内戦の様相を呈していく。

厄介な事に、この内戦状態は北対南という単純な構図ではなく、南ベトナムにも反政府勢力となる南ベトナム解放戦線などの抵抗勢力がいたことだ。共産化の波は確実にベトナムを呑み込みつつあった。

そんな折りに発生したのが、アメリカ軍の自作自演だと言われているトンキン湾事件(1964年8月2日)だ。北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した事件なのだが、後にアメリカ側の徴発が原因であったことが判明している。ともあれ、コレを切っ掛けにベトナム戦争は勃発してしまうのである。

ベトナム戦争に参加を求める韓国

ベトナム戦争は当初、北ベトナム、即ちベトナム民主主義国にソ連や支那が荷担し、南ベトナム、綱和知ベトナム共和国にアメリカ軍+SEATO連合(オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランド)が荷担して戦争が始まった。

ここで念頭においておきたいのは、北ベトナム側に参加している支那、つまり中華人民共和国の存在だ。中華人民共和国の樹立は1949年で、この頃の支那にとって領土拡大は至上命題であった。チベット動乱(1956年~1959年)と、ウイグル接収(1949年)、内モンゴル自治区成立(1947年)などの動きを見ても分かるように、とにかく領土拡大に邁進していた。ベトナムもまた支那につけ狙われた土地の1つである。

さて、そろそろ韓国の話に戻していこう。

朝鮮戦争で棚ぼた式に政権を奪取した李承晩だが、軍事政権によって韓国内の政権維持を行っていた。しかし、民主化の圧力が押しよせ韓国は次第に民主化の向かっていく。李承晩の次の政権では韓国において唯一無二の出来事となる議院内閣制を採用したが、李承晩の時代に弾圧された人々が断続的にデモを行って内戦の様相を呈してきた。こうした運動は公権力の中にも蔓延したため、韓国政府は役人、警察、軍人に対して不正活動に関わったとして公職追放を行う。この反発に乗じた朴正煕が軍事クーデターを起こすことで政権を奪取する。

朴正煕は1961年にクーデターを起こし、1963年に大統領の職に就く。そして、1965年、日韓基本条約の締結と、ベトナム戦争参戦を果たすのである。

軍事クーデター後の朴正煕にとって、尤も重視したのは外国勢力に認められることで、特にアメリカに胡麻を摺ることを重視していた。そのための日韓基本条約の締結であり、ベトナム戦争参戦であった。韓国はその当時、アメリカから多額の援助をうけており、国内の復興はそれに頼り切っていた。したがってアメリカからの援助を減らされる事を危惧しており、日韓請求権協定(1965年)での決断も金銭的な面での判断が大きかった。

これに対して当時のアメリカ大統領であったケネディは、韓国側の要請を受け入れはしなかったが、共産主義の拡大を恐れた次のアメリカ大統領、ジョンソン氏は、段階的に韓国軍の派兵を受け入れる。

1965年7月12日には、韓国政府はベトナム派兵案を韓国国会に提出し、これを批准させることに成功する。SEATO連合の国々がアメリカ政府からの要請に応えた格好で戦線に加わったのに対し、韓国軍は自ら志願して戦線に加わった点で異なる。

そして、消極的なSEATO連合に対して韓国軍は韓国単独でSEATO連合の軍の4倍の兵力を投じる。

そして、韓国軍はベトナム軍をすり潰し民間人の虐殺と暴行をやらかすのである。

フォンニィ・フォンニャット事件

この虐殺の背景には、北ベトナム軍の戦略にも関係している。上述したようにフランス軍と戦った際に大きな戦果を挙げた方法が山岳部でのゲリラ作戦であった。

アメリカ軍もこの北ベトナム軍のゲリラ活動に大いに苦しめられる。そこで、サーチ・アンド・デストロイ作戦を決行する。見つけ次第殺せ、というわけだ。

大規模に作戦を展開してヘリボーン作戦や森林戦で、村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅する作戦である。しかしそれは直ぐに効率を求めた航空機からナパーム弾を投下しての、無差別攻撃にも結びついていく。

デイジーカッターと呼ばれる兵器が登場したのもこの時で、BLU-82/Bは、スラリー爆薬を使用した総重量6800kgの巨大爆弾である。当初の目的は、爆心地周辺の木々をなぎ倒してヘリポートを建設するというものだったが、それ以外のものをもなぎ倒した。

そうした大雑把な作戦と共に行われたのが韓国軍兵士の行った村民への暴行、殺戮、強姦、略奪を伴う殲滅作戦である。

「フォンニィ・フォンニャット事件」は、1968年2月に韓国軍青龍部隊がベトナムのクアンナム省ディエンバン市社ディエンアン坊フォンニィ・フォンニャット村の70人あまりの住民を殺害した事件。当時8歳だったグエン・ティ・タンさんは、家の周りで青龍部隊第1大隊第1中隊の兵士に銃で左のわき腹を撃たれて重傷を負い、手術で命拾いしたものの、今でも後遺症に苦しんでいる。当時、グエンさんの家族5人が命を失い、14歳の兄は大怪我をした。韓国軍は1964年9月から1972年まで31万2000人あまりをベトナムに派兵しており、この期間における韓国軍による民間人虐殺事件は80件あまり、被害者数は9000人あまりに達すると推定される。

ハンギョレより

このフォンニィ・フォンニャット事件はほんの一例であり、以下の事例が知られている。

  • ビンディン省プレアン村、キンタイ村で科学兵器を用いた掃討作戦を展開(1965年12月~翌年1月)
  • プウエン省のタオ村で女性市民42名殺害(1965年12月~翌年1月)
  • ブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方で市民財産の略奪(1966年1月1日~4日)
  • カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領(1966年1月1日~4日)
  • ナムフュン郡で老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害(1966年1月1日~4日)
  • アンヤン省の三つの村では110人の市民虐殺(1966年1月1日~4日)
  • ポカン村で32人以上の市民虐殺(1966年1月1日~4日)
  • ビンディン省で400人以上の人市民を虐殺(1966年1月11日~19日)
  • ビンディン省で1200人以上の市民を虐殺(ダイヴィン虐殺:1966年1月23日~2月16日)
  • ビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺:1966年2月)
  • ビンディン省タイヴィン村アンヴィン集落のゴザイで住民380人を虐殺(ゴザイ虐殺:1966年2月26日)
  • ビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若問わず女性を集団強姦(1966年3月26日~28日)
  • 共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が1966年10月にベトナム市民の結婚式を襲撃し、花嫁を含む7人の女性を強姦、宝石を奪い3人の女性を川の中に投げ込む暴行事件発生。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見されている。
  • クアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の村民79人を虐殺(フォンニィ・フォンニャットの虐殺:1968年2月12日)
  • クアンナム省ハミ村の村民135人を虐殺(ハミの虐殺:1968年2月25日)

この様な流れを受けてアメリカ軍もソンミ村虐殺事件(1968年3月16日)をやらかして、村民504人を虐殺してしまうが、これを切っ掛けにアメリカ国内での反戦活動が激化するようになる。なお、ソンミ村虐殺事件の実行犯はアメリカ軍法会議によって処罰されている。

ゲリラ戦のエキスパート?蔡命新

このような韓国軍のトップだったのが、蔡命新なる人物である。

彼は、ベトナム派遣軍最高司令官を務め、韓国軍の作戦を指揮した人物だとされている。朝鮮戦争では白骨兵団を率いて北朝鮮軍の後方でゲリラ活動を指揮して活躍した人物で、朴正煕の軍事クーデターにも荷担した人物で、樹立した軍事政権では幹部に抜擢されている。

更に、アメリカ陸軍指揮幕僚大学を修了したエリートでもある。戦争の後にはテコンドーの普及に広く貢献し、大韓テコンドー協会の初代会長に就任した人物でもある。スウェーデン、ギリシャ、ブラジルの大使も務めた経歴の持ち主でもあるため、立派な人物であった事が伺える。

だが、その罪は後に暴かれることになる。

Fallen Heroes

ON 4/9/00 AT 8:00 PM EDT

The old soldiers moved in while their enemy was at breakfast. About 40 men, all South Korean veterans of the Vietnam War, massed at the KAL Hotel on the island of Cheju in February to ambush a crusading graduate student who calls them “madmen and barbarians.” In a series of controversial articles, Koo Soo Jung had alleged that her countrymen massacred thousands of civilians in Vietnam–a claim that challenges the veterans’ status as heroes in South Korea. When vets learned that Koo would be speaking at a human-rights conference, they mobilized. First they lobbied organizers to exclude her. When that didn’t work, they stormed the hotel to disrupt the gathering. As Koo made her presentation, they jostled with the organizers for almost an hour outside the hall. In the end, they sent a representative to present their own view. “How dare they criticize us?” one former soldier shouted. “We fought for our lives.”

~~対訳~~

敵が朝食をとっている間に、老兵たちが動き出した。ベトナム戦争に参加した韓国人退役軍人の約40人が2月、チェジュ島のKALホテルに集結し、自分たちを「狂人、野蛮人」と呼ぶ改革派の大学院生を待ち伏せしていた。ク・スジョン氏は一連の論説で、同胞がベトナムで何千人もの民間人を虐殺したと主張していた。この主張は、韓国で退役軍人が英雄として扱われていることに疑問を投げかけるものだった。クーさんが人権会議で講演することを知った退役軍人たちは、動員をかけた。まず、彼女を排除するよう主催者に働きかけました。それがうまくいかなかったので、彼らはホテルを襲撃して集会を妨害した。クーさんが発表する間、彼らは会場の外で1時間近く主催者側ともみ合いになった。結局、彼らは自分たちの意見を述べるために代表者を送り込んだ。元兵士の一人は、「よくも私たちを批判したものだ」と叫んだ。”私たちは命をかけて戦ったんだ”

Newsweekより

Newsweekが蔡命新の関わった犯罪行為だとすっぱ抜いたのである。

朴正煕がベトナム戦争に韓国軍を参加させて、高速道路建設のための資金調達や港湾建設、輸出経済の活性化を図るために10億ドル近くの外貨を稼いだとし、その過程で韓国軍が8000人以上の民間人を虐殺したと指摘している。

そして、ゲリラ作戦が展開されていたことで敵味方の区別が付かず、「やむを得ないことだった」と蔡命新は語ったようだ。

ただ……、フォンニィ・フォンニャット村の件では蔡命新はアメリカ軍に行動の真意を問われ、「それはベトコンの仕業だ」と回答したと伝えられている。嘘の報告をしたワケだ。そうした側面を考えると、蔡命新は韓国人らしいエリートだった、といえるのかも知れない。

朝鮮戦争で展開したゲリラ作戦を、ベトナム戦争においても用いたのは蔡命新の提案だったとされていることから考えても、朝鮮半島では当たり前に行われた行為であると理解すべきだろう。敵と認定したら相手を欲望の赴くままとことんまですり潰す。

戦時にすら正統化することができないやり方ではあったが、苛烈を極めたベトナム戦争においては承認されたやり方だったのかもしれない。

謝らない国、韓国

消滅時効、5年

ところで、この裁判の不可思議なところは、以下のような主張が罷り通っている点だ。

口頭弁論に先立ち韓国政府は、消滅時効の完成や相互保証原則などの法理についての準備書面を裁判所に提出した。民事訴訟である国家賠償訴訟は、不法行為が発生した日から5年以内に起こさなければならないが、消滅時効が完成しているうえ、韓国人がベトナムの裁判所で国家賠償訴訟を起こせる場合に限り、ベトナム人も韓国の裁判所で国家賠償訴訟を起こせるとする「相互保証原則」にも反するとの趣旨だ。これに対し、グエンさんの代理人団は「不法行為による国家賠償訴訟で消滅時効を主張するのは権利の濫用」とし「相互保証原則を厳格に適用するのも適切でない」とする内容の反論書面を提出している。

ハンギョレより

国家賠償請求可能な消滅時効は、不法行為が発生した日から5年以内と言及している。

確かにそうだが、戦争犯罪に時効はないんじゃなかったのか?自分の時だけ都合の良い反論をするのはちょっとどうかと思う。

そして、この一件だけではなく他の事件についても光があたり、ダイダイハンの問題も勧告政府にもっと真剣に考え謝罪して欲しいと思う次第。

ムン君の謝罪はなし?

なお、この手の問題には近年光が当たりつつある。

ライダイハン ベトナム戦争時の韓国軍の所業を英BBCが報道

2020.4.4 19:29

英国の公共放送である英国放送協会(BBC)が3月にベトナム戦争当時の韓国兵による女性への性的暴行を特集で伝えたことが、日韓外交の関係者らの間で反響を呼んでいる。韓国政府は国連の場でも、旧日本軍のいわゆる慰安婦問題を再三取り上げてきたが、ベトナムでの自国兵の行為について謝罪はしていない。BBCは、韓国の二重規範についても指摘している。 BBCは3月27日、ウェブサイトに、「1968-何百人もの女性を苦しめた年」と題した記事を掲載し、韓国軍兵士から被害を受けた2人のベトナム人の境遇を詳しく伝えた。そのうち1人は性的暴行を受け、3人の子供を身ごもった女性だった。

産経新聞より

理由は、いつまでも日本に対して謝罪と賠償を要求する姿勢を示したために、ベトナムの方々も「賠償が可能なのでは?」という動きに繋がったからと思われる。

……いや、日本のロビー活動も無関係とは言えないかも知れないが。

ライダイハン、文在寅大統領にDNA型鑑定と謝罪求める

2019.6.10 15:28

ベトナム戦争に派遣された韓国軍兵士が現地の女性を性的暴行などして生まれた「ライダイハン」と呼ばれる混血児たちが韓国の文在寅大統領に国連人権理事会の調査と親子関係を確定するDNA型鑑定に応じ、公式謝罪を求める公開書簡を出した

産経新聞より

ライダイハン問題は、韓国兵士の暴行とは無関係だという指摘もある。何しろ、虐殺事件として知られているものは、殆どが強姦された後、虐殺されている。よって、子供は生まれようがない。

だが、こうした虐殺事件として表面化しなかった事件の裏に、山のような強姦事件があった可能性は示唆されているし、兵士だけでなく、ベトナム特需を当て込んで現地に行った民間韓国人もいた。彼らが現地の女性との間に作った子供がライダイハンと呼ばれ、現地で迫害されるに至った。

余り語られはしないがアメリカ兵士とベトナム人女性との間に生まれたアメラジアンと呼ばれる人々もいる。ただ、アメラジアンは「アメリカ人軍人の父とアジア人の母の間に生まれた子ども」を意味するので、ベトナム人女性の子供だけでは無いことに注意されたい。

そんな訳で、韓国兵だけが問題であるとは思ってはいないが、人数すら特定できない状況のライダイハンは今なお存命の方が多い。

当時も、ライダイハンを作った兵士が韓国軍の軍法会議にかけられた事案が報告されていて、少なからずそうした存在はいるハズだ。

ベトナム民間人虐殺の事実を認めると共に、ライダイハンの救済にも是非とも尽力して欲しい。え?ムン君には無理?しかし、左派政党のトップであるムン君にそれが出来ないとしたら、韓国では誰もその事実を認めようとはしないのではないかな。

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